結果を出すということ
こんにちは。最近復調気味の3年鈴木です。
「復調」というからには調子が落ちていた時期がありました。
前回僕が記事を投稿した約2か月前、あれは丁度僕が体調を崩していた時期です。熱が下がってからも症状が中々収まらず、その期間は軽いジョグ程度しかできませんでした。
それによって調子はどん底に落ち、予選会までに調子が完全に戻ることはなく、予選会本番ではチームに迷惑をかけました。
僕の場合、一度練習にブランクが空いてしまうと、元の調子に戻すには時間がかかるようです。杉浦くんによく言われますが、まるで泳ぎ続けないと死んでしまうマグロのようですね。
予選会前に比べたら今は調子が戻りつつあります。来月の記録会の結果には乞うご期待ください。
さて、予選会が終わってからの本リレーブログは、司代→清水→杉浦と自分の意見を表明する素晴らしい投稿が続いていますね。
特に前回の杉浦くん。さすがはブロック長&学連主将、様々なことを深くまで考えていて、非常に読み応えのある文章でした。
僕もその波に乗ろうかと思いましたが、思慮を巡らせて文章化するとなると、凝り性な僕は貴重な休日を丸一日溶かしてしまいそうです。
そこで今回は、これまで何度か言及があった実力主義・結果主義について、少しばかり自分の考えを述べたいと思います。
取り組みが評価されない結果主義
前回までのブログで、競走部復活のために長距離ブロックができることとして、「結果を出す」ことが挙げられていました。
僕たちの取り組みを他ブロックに完全に理解してもらうのは難しい。
だから結果で示すしかない。
努力は見られずに結果だけが評価されるという点で、これも一種の結果主義的な考えといえるでしょう。
上記の例は、長距離ブロックと他ブロックという別の組織を比較する際に、結果主義を採用したものです。
組織の中での結果主義
ここで、長距離ブロックという1つの小さな組織の中で結果主義を適用したらどうなるでしょうか。
もちろん、ブロック内で競争意識が生まれ、チームメイトよりも良い結果を出すことがモチベーションとなるのであれば、それは素晴らしい風潮だと思います。強豪校が強い理由の1つは、チーム内での競争意識と緊張感にあるのでしょう。
しかし、チーム内においてPBのタイムでマウントを取る、怪我で走れない人には目を向けない、などとなると少し話が違います。このような傾向があるのであれば、必ずしも結果主義を反映するべきではないというのが僕個人の意見です。
一般に、全員が同じ努力・練習をしたとしても、全員が同じ実力になるわけではありません。能力や身体つきも人それぞれですし、結果に差が生まれるのもやむを得ないことです。
だからこそ、PBのタイムや怪我をしている/していないに関わらず、同じ組織で同じ目標を共有する一人の人間として、チームメイトには同等に接するべきだと思います。
これは、努力さえしていれば、結果を出さなくてもよいと言っているのではないです。競技をしている以上、結果を出すのが重要なのは言うまでもないことですから。
むしろ、どのようにして努力を結果に繋げたのか、どうやって怪我を克服したのか、そのプロセスを伝えることが、結果を出すことに成功した人の役目ではないでしょうか。
自分だけが強くなればいい、そんな考えは捨てるべきです。
結果主義の本質
結果主義の本質は、「別々の組織と結果を競うこと」にあると僕は考えています。
大学ごとに順位を争う箱根駅伝で、これまでどれだけ走り込んだか、どんな取り組みをしてきたかなんて考慮されませんよね。夏に合宿に行けなかったからといって、予選会で優遇されるはずがありません。速く走った順に順位が付くに決まっています。
同じ組織内で結果を競うことは、その組織を強くするための手段となり得ますが、時に間違った方向へと進んでしまいます。
チームとして戦う駅伝という競技において重要なのは、チーム内での結果に優劣をつけることではなく、他チームと比較して結果に優劣をつけることだと思います。
最後に
チームでは、箱根駅伝本戦出場のための第一歩として全日本大学駅伝予選会に出場することを目標としています。その出場権は10000m上位8人の平均タイムで決まることから、一人ひとりが1秒でも速い記録を残すことが求められます。
僕個人としても、他チームと比較して10000mの平均タイムが速くなるよう、まずは来月の記録会で結果を出したいと思います。
うちのチームは、まだまだ伸びしろばかりです。
走るのは個人ですが、記録向上に向けてチームとして良い流れを作っていきたいですね。
次は、12月の記録会に向けてスパイクをご購入した内藤くんです。
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