こんにちは。Walking dictionary こと森内です。昨日は大学に入っての初レースがありました。思うようなレースはできなかったですが、やっとスタートラインに立てたのでここから頑張っていきたいと思います。さて今回のブログですが、僕の出身高校がカトリックのミッションスクールであり、僕自身も聖書研究会に行っていて実質No.2まで上り詰めた(?)過去があるので僕が大切にしている聖書の一説を紹介したいと思います。ちなみに、僕の誕生日(12月3日)は聖フランシスコザビエルの記念日です。ザビエルというとハゲのイメージが強いかと思いますがイエズス会にはトンスラと呼ばれる剃髪の習慣が無かったため実際はハゲてなかった可能性が高いそうです。みなさんが期待しているであろう小ネタを一つぶち込んだところで本題へと進みましょう。長くなるとは思いますが最後まで読んでいただけると嬉しいです。

マタイによる福音書6章1節―6節

 自分の義を、見られるために人の前で行わないように、注意しなさい。もし、そうしないと、天にいますあなたがたの父から報いを受けることがないであろう。だから、施しをする時には、偽善者たちが人にほめられるため会堂や町の中でするように、自分の前でラッパを吹きならすな。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは施しをする場合、右の手のしていることを左の手に知らせるな。それは、あなたのする施しが隠れているためである。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。また祈る時には、偽善者たちのようにするな。彼らは人に見せようとして、会堂や大通りのつじに立って祈ることを好む。よく言っておくが、彼らはその報いを受けてしまっている。あなたは祈る時、自分のへやにはいり、戸を閉じて、隠れた所においでになるあなたの父に祈りなさい。すると、隠れた事を見ておられるあなたの父は、報いてくださるであろう。

AGE QUOD AGIS

 いかがだったでしょうか?人それぞれの解釈があるとは思いますが僕なりの解釈をお伝えします。それは人に見られているから、人に見せたいからといった下心を関係なしに自分のやるべきことをやるのが善い人間だというものです。拡大解釈かもしれませんが、周りの目を気にしてしまう節があった当時高校生の自分には「偽善者」という言葉は心に重くのしかかりました。以来、僕は常に思考のベクトルを自分に向けるということを意識して生きてきました。具体的に言うと常に自分に向って「今、ここで、自分が、何をするべきか。」ということを問い続けるというものです。そうすることで、自分の置かれている状況に惑わされず、田島くんのブログにあったように日常の中に数多ある選択の機会においてより善い選択ができるのではないかと思います。これで終わりみたいな雰囲気を醸し出してしまいましたがまだまだ続きます。どんどん行きましょう。

全体集合にて

 先日(といってもかなり前ですが)の全体集合で杉浦さんから当事者意識についての話がありました。そこで自分自身の当事者意識について考え直してみたところ、チームの一員であるという意識が希薄であったように感じました。そして、そのように感じた理由は先述の思考ベクトルの意識に起因していると考えました。つまり、自分が何をするべきかということに囚われすぎてチームの一員としての意識が薄くなっていたということです。もちろんそうした意識が全くなかったわけではありません。自分がやるべきと思ったことがチームにとって有益であることを確認してから行動に移すようにしていました。しかし、それはチームにとって最善であるとは限りませんし、何より問題なのは意識の段階でチームより自分が優先されているということです。本来自分が何をするべきかということと、チームの一員としての当事者意識は二律背反なものではなく同じ思考段階で共存できるはずです。それを怠ったのは視野を広げるのを拒むという楽な選択をした自分の逃げの姿勢が原因です。そのような姿勢の部員がいてはより善いチームはできないと思います。ここは自分の至らない点で深く反省しております。これからは、常に「今、ここで、自分が、チームにとって何をするべきか」ということを意識して日々の生活を送っていきたいと思います。

 最近の悩み

 とここまでさんざんカッコつけたことを書いてきましたが、常に最善の選択をできるほど人間は完璧に出来ていません。意識の低さ、能力の欠如、環境の問題などさまざまな要因によって最善の選択ができない場合は多々あります。どんなにスーパーな人であっても常に最善の選択をし続けるのはおそらく不可能でしょう。特に僕は意志の弱い人間なのでその選択を誤ることが多いです。先述の当事者意識についてもそうですし、今日もダラダラしていてこのブログを書き始めるのを一時間遅れでスタートしました。このようにして、自分がかくあるべきという「理想の自分像」と「現実の自分」には少なからずギャップが生じます。このギャップとの付き合い方が全く分かりません。理想を追い求めることは大切ですが、「現実の自分」は言わずもがな自分であるためある程度肯定をしないと生きていけません。しかし、その肯定が甘えになって、理想に近づくことがより困難になるのではないだろうか、とか、どんなに努力しても埋められないギャップもあって、それは受け入れるしかないのだろうか。いや、そのギャップを埋めようと努力することそのものに価値があるのではないだろうか、とか。そうして考えているうちに頭がグルグルして訳のわからない状態なって一日が終わる。そんな毎日を過ごしております。誰かいい付き合い方をご存じの方がいれば教えてください。待っています。

振り返りと次回予告

 自分でも訳の分からない文章を書いてしまいました。読んでくださった皆様には大変申し訳なく思います。そして最後の段落は余計だったかもしれませんね。ただ、人に弱みを見せられたということで成長したということにさせてください。さて、次回は3年生にいって朝倉さんです。よろしくお願いします。

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