慶應SF研卒業論文少女☆歌劇レヴュースタァライトにおける異世界性 ~監督・古川和宏が掲げる取捨選択の先にあるモチーフ・テーマとしての「舞台」世界と、そこで結ばれる物語の結末についての論考~

2022年度卒業生 朝霞 敦

1.はじめに

 読者諸君に言っておこう。私はスタァライトが大好きだ。

心の中に住んでいるハーケンクロイツを担いだ小太りの某少佐の定型文が頭を駆け巡っているが、残り少ない理性をもって割愛したことを褒めて欲しい。きっと、これが私の理性が正常に働く最後の機会だろうから。

弊サークルの奇妙奇天烈な記事に興味を持ち、私のこの拙い論考にも足を運んでいただいた読者のことだ。『少女☆歌劇レヴュースタァライト』という21世紀日本が誇る最高傑作のミュージカル作品群のことを知らずにこの記事を開いた者はいないと思いたいが、一応慶應SF研としての卒業論文という形式を(勝手に)取っている手前、スタァライトとは何か、簡潔に述べてから論考に移ろう。

本作品群は、ブシロードとキルケプランニングによるメディアミックス作品である。ジャンルは、ミュージカル・バトルロイヤル・青春・SFといったところか。輝かしい舞台女優を目指す少女、通称『舞台少女』と呼ばれる登場人物たちが舞台を司る超常的存在『キリン』によって開催される『レヴュー』というオーディションを通して切磋琢磨し成長していく……というのが、共通するあらすじだ。

スタァライトのメディア媒体はアニメとミュージカルが主軸となっており、これは一般的な二次元コンテンツと同様であるが、アニメとミュージカルが相互にリンクしユニバース構想と同様に物語を展開していくのが最大の特徴だ。その特性上、アニメとミュージカルの演者は共通され(メディア媒体に応じて演者が異なるのが一般的だ)、初期の主要キャスト9名は舞台経験こそあれど、アニメ声優の経験がない者も少なからずいたことから、舞台演出を重視したミュージカルアニメであることが言及できる。

 スタァライトは基本的に、舞台とは、舞台を演じる者とは、と登場人物が悩み葛藤し突き進む物語であるが、アニメに至ってはSF的言及がされており、その点からSF研として論考する意義が見出せる。アニメシリーズと劇場版の監督を務めた古川和宏氏は原画と演出家としてのキャリアを重ね、本作で監督としての初めてのキャリアを歩んだわけであるが、アニメとしてのスタァライトを語る上で、古川氏のキャリア……特に『少女革命ウテナ』などで知られるアニメ監督幾原邦彦氏の直弟子であるという点は欠かせない。

 あるインタビュー[1]にて、古川氏は押井守氏の作品からアニメとしての演出論、「情報量のコントロール」が自作に影響を与えていると述べている。この演出論は師である幾原氏も重視しており、氏はその技術の存在を押井氏の作品から学び、その扱い方を師の元で作品を手掛けることで学んでいたのである。幾原氏の作風である独特のトメ絵やトリッキーなバンク、「セル画の枚数・作画の力に頼らずに面白い物を作る」という演出ポリシーは、いうなればこの「情報量のコントロール」によって生まれた存在なのである。氏はインタビューの中でこうした監督による余裕のない製作現場で生まれたこの技術は、実力のあるアニメ監督が全員導入しているモノであり、その際の取捨選択によって、マテリアルの選び方によって『作家性』が生成・決定されていくと述べている。

 スタァライトの作中にはしばしば少女革命ウテナと共通したモチーフが散見される。レヴューの勝敗を決定づける前掛けの存在と決闘の勝敗を決める胸元のバラの存在が良い例だろう。こうした共通点は、単なる師へのフォロー・オマージュではなく、「情報量のコントロール」の共通した基準によって生成された、氏の作家性・オリジナリティを表現するためにあえて表象した共通モチーフであると解釈できる。というのも、氏はインタビューの最後に『アニメのオリジナル企画を作るときには『お客さんの楽しみ方をどう設計するか』をまず考えるべき』と述べ、それによって重要なのは、アニメの消費者の消費方法を、監督がプロデュースレベルで意識し、自分が確立したオリジナリティを駆使して作品を作り上げていくことを意識していたためだ。


 さて、序論はスタァライトの監督である古川和宏氏の作家論について述べたわけであるが、ここで述べられた「情報量のコントロール(取捨選択)」とはつまるところ、芸術論やファッション論で語られる『引き算の美学』のことだろう。無駄を最大限切り落とした最小限の表現に宿るオリジナリティとは、往々にして一般的に知れ渡ったモチーフが最強の個性として成立する。『FIRST TAKE』における一本のマイクや一発撮り、『松林図屏風』における余白が良い例だろう。前者では伴奏や背景を最低限することで歌手の歌声を強調したり、歌手・観客の想いを強化したりするし、後者では絵を極限まで削ることで生じた余白が何を意味しているのか、何のモチーフであるか、絵のない余白にこそ絵の本質が隠れているように錯覚させている。

ここで重要なのは、オリジナリティの象徴として選抜されたモチーフに対して、いかに別の意味合いを付与させ、考える余地を与えることだ。そのためには、モチーフは誰にでもわかるモノでなくてはならない。

スタァライトにおける作劇上のモチーフは、先述した舞台少女の前掛けのボタンがその一つであるのは言うまでもない。しかし今回は、あえて本作の舞台設定である舞台ステージが有する『異世界』要素について論考していこうと思う。


2.『異世界』というモチーフ

 モチーフは誰にでもわかるモノでなくてはならない。

 私が先程述べていたように、本題であるスタァライトにおける『異世界』のモチーフである舞台ステージもその限りではない。

 キリンの作り出す舞台空間は『舞台少女のきらめきと才能を具現化した異世界空間』である。スタァライトにおけるオーディションはつまるところ、舞台少女たちの精神と精神をぶつけ合い、その格を競い合うモノであるのだ。

 物語としてのスタァライトにとって、この『異世界』は多くの意味を持っている。表面上ではあいまいな演技力という物差しを激しいアクションと演出によって『アニメの見どころ』に翻訳されているが、本作の場合はそれだけではない。その場となる『舞台』は舞台少女自身が自覚する自分としての精神や信条、心の動きなどを繊細に表現する新種の心理描写、現実と乖離された異世界として確立しているのだ。

 このような概念に近いモノとして、『呪術廻戦』の領域展開が考えられる。領域展開とは、『呪術廻戦』に登場する特殊能力者・呪術師が生来有している特殊能力の源である精神内の空間を拡張して現実を侵食させることで顕現させ、相手を自分の領域内に取り込むことで攻撃する戦闘技術である。これは舞台ステージと同様に術者の精神に反応して変容し、術者の精神や心情の象徴として演出されると同時に、領域同士の戦いや駆け引きは、相対する呪術師の精神世界の押し合いに手決着がつくという点は、『異世界』の描写としても作劇上の演出も共通していると言える。

 しかし、両者が『異世界』モチーフであるかというとその限りではない。なぜならば、両者の持つ物語におけるモチーフの目的が異なるためである。舞台ステージが舞台少女の葛藤や対立などのドラマを可視化した(作劇的な意味での)舞台装置的な空間である一方で、展開された領域は敵を攻撃するための特殊能力を具現化された(漫画表現的な意味での)舞台道具的な空間なのだ。呪術廻戦がジャンプ漫画であることに言及すれば、領域展開はジョジョの『スタンド』(擬人化・可視化という特性を持った特殊能力の表現上の個性)に分類される、というのも舞台ステージと展開された領域の相違点の根拠には充分だろう。

 以上のことから、物語に登場するモチーフとは、「情報量のコントロール」や引き算の美学によって選抜されたありふれたものであるという特性上、共通した側面を有したモノが散見されるが、別の側面からモチーフを再解釈したり、作品がモチーフをどういった目的で用いているかを考察したりすれば、全く同じモチーフは存在しないこと……モチーフのオリジナリティがあることが分かる。


3.「舞台」という異世界

 キリンの舞台ステージがスタァライトという物語に『異世界』を取り込むモチーフとしてうまく用いられて一方で、そのフォーマットとなった現実世界での舞台演劇の『舞台』もまた、特異な異世界性を有していることも言及しなければならない。

 異世界とは現実を構成する要素から離れた世界(空間)をさす。例えば魔法があったり、文明が異なったりしている場合で、現代における過去や、ハリーポッターの魔法界や異世界転移ジャンルの二ノ国、日本人にとっての外国(海外)などがそれにあたる。それらと同じように、『舞台』もまた現実を構成する要素から離れた世界と言えるのではなかろうか。

『舞台』を構成する人物は当然のことながら、まぎれもない個人である。しかし、役者の情報(人種や言語や性別)は固定されているというのに、それらが改変されて人種や種族、性別などが異なるキャラクターを演じることが常である。場所もたかが数十畳しかない空間が舞台装置や大道具を組み換えて全く別の場所であるように演出する。照明や大道具をうまく使えば、同時に複数の場面を出すこともできるし、時間さえも思うがままである。往々にして、こうした現実から乖離してしまう過程で黒子などといった舞台演劇特有の御約束(ご都合的な暗黙の了解)が存在し、観客もそれを承知でそのご都合に合わせて『舞台』という異世界空間の形成を助けている。

 つまり、『舞台』とはリアルタイムで形成される特性故に創作物の中でも不自由でありながら、不自由であるために御約束の下で観客と共謀しながら作っていくモノなのだ。これを可能とさせているのは、律儀で煩わしい現実とは異なった世界の御約束ほうそくをもつ『舞台』であるから……『舞台』が異世界性を有しており、現実にいる観客がそれを承認しているからに他ならないからだ。


4.「舞台」という名のセカイ

 これまでモチーフ、媒体フォーマットについて述べてきたが、ここでは物語に欠かせないもう一つの要素である『テーマ』について述べよう。

スタァライトとよく比較される作品として『少女革命ウテナ』や『新世紀エヴァンゲリオン』(監督である庵野秀明氏は幾原氏と個人的な交流があり、互いの作風に影響を与え合っていることが明らかになっているため)が取り上げられる。二つは俗に『セカイ系』をテーマにした物語であるが、スタァライトを同じ区分に置くのはいささか疑問である。

セカイ系物語の本質は『キャラ(ヒロイン)かセカイか』であるが、スタァライトの本質はそうではなく、『キャラか自分か』ということに終始しているためだ。この発問は物語に直接出てくるのではなく、あくまでセカイ系のお決まりにあやかった『キャラかセカイか』論法で語られ、その世界は物語の根本にある現実(我々の生きる現実というメタ的解釈をしても良い)ではなく、舞台少女が自身で形成する精神世界たる舞台ステージ、異世界で行われる。

要するに『キャラかセカイか』⇒『キャラか舞台(異世界)か』⇒『キャラか自分か』という変質の中での発問なのだ。しかし、舞台少女の作り出す舞台ステージは自分だけで形成できるものではない。否、一人だけでも形成できるが、一人だけではオーディションは成り立たず、舞台ステージは停滞する。複数の舞台少女が交じり合うことで初めて舞台ステージは動き出す。故にスタァライトにて発問される『セカイ』は、自分自身と他の舞台少女の精神世界が融合した代物であり、現実的に翻訳すると「少女同士のみに広がる関係性(≒百合空間)」と表現できる。

スタァライトとは、『舞台』という異質な常識と特性を有した異世界を、『百合空間』と視覚化されたキャラクターの精神的成長をダイナミックかつドラマティックに表現するための(文字通り)舞台装置として利用した異世界作品といえるだろう。


5.翻訳された『舞台』の特性とスタァライトの結末について

 スタァライトには二つの結末が存在していると解釈できる。TVアニメと劇場版だ。

 TVアニメでは、愛城華恋によって戯曲スタァライトの解釈が変更された。『主人公が変えられない運命を変える』という結末は使い古された筋書きであり、往々にしてセカイ系では「主人公が不思議パワーを用いる」ことによってこれを成し遂げていた。しかし演劇の世界において『変えられない運命(脚本)』の変更は日常茶飯事で、それ故に変更に不思議パワーは必要ない。同一の物語でも演じる機会や俳優、演出家が異なれば全く別の演劇になる。この過程は舞台に大きく足を踏み入れなければ認知できない。そこでセカイ系に親和性のある物語を通し(翻訳し)つつ、華恋はセカイ系主人公として不思議パワーを用いるのではなく、一人の舞台に関わる人間としてこれを行った。

そして、この所業はストーリーテリングの技術だけではなく、『主人公の成長』の描写としても機能している。愛城華恋は未熟な主人公だった。一人の人間としても、一人の俳優としても、舞台少女としても。だが夢と目標と手段ある。未熟でありつつも進むべき道を自覚しているのは、理想的な主人公だ。1クールアニメの主人公として成長し、最終回で覚醒して物語に幕を下ろす……華恋はお手本のように役回りを全うした。前述の『舞台の特性』はセカイ系に翻訳されて、覚醒の根拠と結末までの道筋を提供したのである。

劇場版では、愛城華恋ら9人の舞台少女たちは結ばれた物語の終わりを解いて決着した関係性の破壊と再構築を強いられた。こうした続編的筋書きは往々にして『蛇足』といわれる。言葉の由来そのままに、物語が結末を迎えることで見事竜となったにもかかわらず、安易な続編によって足が加えられ、変容した物語の全容は歪なモノへと変わってしまう。この蛇足現象は資本主義化で成功した物語に付きまとうモノで、スタァライトとて無関係ではない。ただ多くの物語と異なるのは、本作では蛇足の足が説明されているという点だ。

神楽ひかりは言った。「観客が望んでいる」と。全くもってその通りである。我々は望んだのだ。結末を迎えた物語の続きを。キリンのように舞台少女たちのきらめきに魅了され、彼女たちに続きを演じるように強いてきっかけを提供した。それを作中で直接言うことで、劇場版の存在意義を正当化したのだ。

この正当化の手段が、劇場版にて用いられた結末の切り口でもある。キリン然り、ひかり然り、この手段の言及では『メタ視点』を通して行われている。メタ視点は異世界化された物語と現実に生きる我々観客との境界をあいまいにすることで面白さを演出する性質上、作劇において禁じ手であるとともに、制作には絶妙なバランス感覚が必要になる。少しでも二つの境界を織り交ぜれば物語がしらけて破綻してしまうからだ。

ほとんどの創作物で使うことができる『メタ視点』だが、舞台においてのこれは些か性質が異なる。漫画や映画、アニメでのメタ視点は製作や演技の作業と観客による鑑賞にタイムラグがある(それ故に高い難易度になっている)が、舞台にはそれが存在していない。大道具の移動や音声の差し込み、演技ですらリアルタイムで観客に届けられる。優れた裏方や演者は観客の様子を見て物語の演出を変えていくこともあれば、休憩時間が設けられているモノには後半の物語が始まる前に演者が語り掛けて観客を現実から異世界空間へ押し戻すこともある。舞台は定められた物語を基礎として、メタ視点と前の述べた観客との共謀関係で成り立つ『異世界』の中でも特に異質な世界と言えよう。

この異質さが、愛城華恋を戦慄させた。オーディションはレヴューという閉ざされた異世界で行われていたが、舞台少女たちが成長して俳優というステージに上がったことで『観客と演者の境界線の構築』が『舞台少女の死』と『トマト』によって行われている。『舞台少女の死』とは、舞台の持つ特異な異世界性に適応できず、演じることで楽しさを見出す俳優ではなく演技を見ることに楽しさを見出す観客になってしまうことだと解釈できる。作中冒頭の舞台少女たちは卒業を前にしてそこに陥ってしまい、それ故に大場ななが皆殺しのレヴューをすることで自覚させ、引き戻した。

これを可視化する役割を担ったのが、『トマト』ではなかろうか。トマトはすなわち『メタ視点』であり『舞台少女のきらめき』であり、『演者と観客の境界線』なのだ。花柳香子以下7人の舞台少女はそれの輪郭を認識していたことから、皆殺しのレヴューを通してトマトを齧ることで獲得することができた。しかし愛城華恋だけは違った。彼女は神楽ひかりとの約束をしていたために『トマト』の輪郭……その存在すら知らなかった。終盤にひかりと対面した時、華恋が舞台の異質性に戦慄し『トマト』をはじけさせて『舞台少女の死』をむかえたのは当然だろう。

ここで愛城華恋は舞台少女……否舞台俳優としての資格を失い観客となった。そこから脱却する手段こそが、シリーズを通して一貫する『再生産』だ。再生産はTVアニメでの変身バンクで表現されている通り『約束の証であるキーホルダーを溶鉱炉で溶かして』自分を再生産するモノであるが、劇場版では『過去の(舞台の異質性を認識していなかった)自分たちをロケットエンジンで燃やし尽くして』新しい自分を再生産した。これら二つには明確な違いが存在する。溶鉱炉の燃焼温度が1500度である一方、ロケットエンジンの燃焼温度は3000度に達するのだ。この違いは目標に対する熱量であり、TVアニメではその熱量でも再生産できただろうし、出来上がったモノに予測がつく(溶鉱炉は一般的に鉱石から金属を生み出す)が、ロケットエンジンによって再生産されて飛び立つのは予測のつかない未知の領域(宇宙)であり、無限の可能性が秘められていると解釈できるのだ。

この過程は『スタァライトのその先、新しい舞台と自分を開拓していく』という物語の結末に帰結する。過程に変容が訪れたのは、華恋ら舞台少女・99期生の直面していた到着点が聖翔祭(定まった到着点)から卒業先の進路(定まっていない到達点)に変わったためだ。TVアニメには既存のセカイ系文法で翻訳することで観客と共通の到着点を見出し、結末までの道筋と正当性を提供した。だが劇場版では既存の文法は用いられていない。モチーフとなった『舞台』、テーマとなった『ワイ(ル)ドスクリーン・バロック』、『TVアニメでの文法』を基礎としているが、物語に用いられている文法はそれらとは全く異なる独自のモノで、作中(皆殺し以後の3つのレヴュー)を通して文法の概要とルールを行った。そして、丁寧に作った道筋(華恋が再生産に使った線路)を爆走することで物語を新しい結末へ導いたのではなかろうか。


6.さいごに

 ここまで私の人生最大の推し作品であるスタァライトを、監督の作家性やモチーフ、テーマを、異世界空間としての要素など多岐にわたる意味合いを有した「舞台」という存在について考えてきた。

 この論考はスタァライトの舞台#4『Climax』の内容を考慮していないモノで、スタァライトの本質について言及していない。なので、今回は副題を添えて論考を進めることにした。#4にて提示された新しいスタァライトの、聖翔を巣立ち舞台人となった華恋の結末と始まりは、ぜひ本稿を読んだ後に読者自ら鑑賞して見届けていただきたい。

 少なくとも本論考の結論として、本作のモチーフ・テーマである「舞台」は、監督・古川氏の取捨選択プロセスにて「舞台」が有する異世界の性質が見出され、セカイ系に代表される既存作品のストーリーテリングと混ぜ合わされて、新しい物語の想像と結末を描くことを可能とした。……ということを言及する。

 一言で言うと、『スタァライトは神作である』ということだ。

 

 ……何? いきなりIQが下がった?

 仕方ないじゃあないか。元はと言えば、私がこの最後の一言を言いたいがために始めた論考なのだから。

筆を取り、熱量をもって風呂敷を広げれば、そこに広がるのはガキンチョが散らかしたレゴのように雑多とした言葉の集合体カオスだ。それを綺麗にまとめ上げて簡潔させるには、それ相応の実力がいる。私の実力では、このカオスをまとめるのはちょっと疲れるのだ。

無理とは言っていない。ただ、入社前研修を翌日に控えた夜23時30分現在、この段落に差し掛かった私の気持ちを考えて欲しい。

「入社してからの研修だと給料が発生するからその節約をするなんて……、何てケチな企業なんだ!」

「昼飯が今半の高級弁当だからって給料を払わなくていい理由にならねぇッ! てか研修が二日あるのに初日は午後開始だから、13時間で支給されるのが実質3000円ぽっちなんだよッ!」

 失礼。つい本音が出てしまった。台本には「早く原稿から解放されて寝たい……」「編集担当の後輩からの小言は聞き飽きたよ……」だったはずだが、つい口ふでが滑ってしまった。

 話を戻して。

 長く続いたこの論考であるが、これは5年間過ごしたSF研での卒業論文として執筆を始めた。

その論考の最後がこんな体たらくで良いかと一瞬考えたが、先述の下りでお察しの通り、私は今深夜テンションで爆上りである。どうか見逃していただきたい……いや、見逃してください。

謝罪ついでに最後の一言。

 私がSF研で過ごした5年間は、面倒くさい気性のオタク大学生の青春として誇らしい日常であった。ここまでお付き合いして頂いた読者の中に、この春から慶應義塾で新生活を送る新入生や、新しいサークルを探している在学生がいらっしゃるなら。是非とも弊サークル、慶應義塾大学SF研究会に足を運んでほしい。

 この文にたどり着けたのなら、きっと楽しめるはずだ。


 では、また機会があれば私の駄文にお付き合いください。



[1] 前田久 『古川和宏② 押井守の「演出論」を学んだ『機動警察パトレイバー the Movie』』 Febri 2021

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