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小説「風の仕業」kaze no itazura 5

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 「先生、実はあの…….。」ある日、原稿を受け取りに来ていた樋口女子、とは云っても、私は彼女こと樋口慶子のことをいつもは親しみを込めて「お慶ちゃん」と呼んでいるが、私の部屋の長椅子に腰掛けていると唐突に彼女がそう切り出したので、私もそれ以上の言葉を続けるのを遮断して、
「まず最初に確かめとくんだけど」と彼女の機先を制した。
彼女が頷いたので「ひょっとしたら、前にお慶ちゃんに云ってたおれが会った女性ひとのこと?」
彼女はそれについては直ぐにはピンと来ない様子だった。それで私は漸く彼女の話を真剣に聞く態度になった。彼女は続けた。
「これは殆ど冗談なんですけどね、もし私が先生の様な方を好きになったとしたら、先生は迷惑なんでしょうか」
私にとっては最近では二番目に吃驚(びっくり)することであったが、彼女の顔が冗談だとは言いながらいつもにもなく真剣であったので、どう答えていいか迷った挙げ句に、
「冗談だといいけど、お慶ちゃんは、おれなんかよりよっぽど若いんだし、男なんてそれこそ掃いて捨てる程いるんだからさ、何もおれ何かに恋する理由なんかないよ、絶対」
「何故なんですか?」と少しふくれたような顔を装いながら彼女は直ぐに聞き返してきた。
「だから要するに、実はおれには気になる人がいるというか、だからさ、うまく云えないんだけどね、この間云ってたよね、梅田でった女性のこと。今はただの知り合い程度なんだけどね、どうも最近身近な存在に見え始めてきたんだよ、なぜか」
「へぇ、そうなんだ、先生も隅に置けないな」
「大人をからかうなよ。でもほんとに知らないの?彼女のこと」
そう云いながら、これはピントをはずれた質問であることに気付き、すぐに話を逸らそうとしたが、何だか見透かされているような感じがした。なんとなく気まずい雰囲気を脱するために私は彼女に最近買って寝かせていた我が家にとっては「極上の」ワインを格別のワイン・グラスに入れてやった。彼女は満足げに、しかも心の落ち着きを取り戻したかのようになって、私が冷蔵庫からつまみとなるチーズや生ハムを用意しているのを垣間見ながら云った。
「でも先生、大変ですね、一人で。先生は気楽なんですか、一人が。やっぱり誰かがいる方がいいですか」
「だからそういう質問にはノーコメントやから」と私が苦し紛れに答えた。
「でも今日は幸せです、こんなに持てなしをされて。初めてですね。」
私も笑って「そうやな、初めてやな」と極めてもっちゃりした関西弁で答えた。
居間にある昔ながらの真空管のスピーカーからロン・カーターの奏でるベースの音が私たちの心を落ち着かせてくれた。

「何か先生、よっぽどその方が気になってるみたいですね……...。ところで今度は仕事の話なんですけど、いつも先生にはルポルタージュをお願いしてるんですけど、今度少し違った視点で、『日常生活の冒険』の中で、恋愛や喧嘩や騙し騙される人間の生態みたいなものを描いてくれないかな?なんて思ってるんですけど」
 私はいつも彼女の知性的な喋り方に魅力を感じてきたが、今度もやはりただの雑誌社の編集者には勿体ないような気がして彼女の依頼話を聞いた。
「それって、おれに小説を描けってことじゃない」
 それは出来ない相談だった。私には小説家になる素質もないのだし、人々の生態を特にルポすることを稼業にして今日こんにちまで来たのだから。それをスティル写真にしてくれというんなら難なく引き受けたろう。
 私はワインを飲みながらまたいつもの悪い癖で、暫し思いを巡らしていた。それは私がまだ若いころ新聞社に入社して間もない頃に、よく行っていた車内食堂のおばちゃん、といってももう六十を越えた人で「綾小路」という貴族めいた名前を持った人だったが、私に会うたびに私に入れ知恵をしていたものだったが、その人が「あなたはいつまでもここにはいないと思うよ。いるべき人ではないんですよ、ここで一生骨を埋めるつもりで仕事をしない方がいいってことなん。何故って、井の中の蛙になってしまうからね。あなたはこれからの人なんだから」
 私はこれからの人という意味が今一つ分らないでいた。それはおばちゃんの買いかぶりなんだろうし、もともと出来がいい方ではないからでもあるが、ただ何度も何度も食堂で顔を合わすために、耳打ちして同じことを言うので妙に気になって、いつしか自分の内心に、いつか自分はここの人間ではなくなるんだろうなぁ、という感覚すら芽生えたのだろうと思う。
 駆け出しの頃に、今はもうこの世にいないおばちゃんから、ああいう誘いかけのような言葉を聞かなかったら、或いは会社員生活をこんなに早く止めなかったと思う。考えてみれば、人との繋がりというものも不思議なものだ。私はそのおばちゃんを以前から知っていた訳ではないし、又新聞社という会社の中で、特に親しく会ってきた訳でもなかったのだ。私はそんなことを思いながら焦点のぼやけた眼でお慶ちゃんの顔を見ていた。
 すると彼女が、先生、私の顔を見つめすぎてますよ、と言って私を現実に引き戻してくれた。私は彼女にルポならどんなルポでもけるから、それを言ってと答えた。
 彼女は、そうですね、そのようにしますと素直に答えて、お暇(いとま)乞いの挨拶をした。
 別れ際に彼女は一つ言い残したことがあるみたいに言った。
「先生は占いって信じます?」
 私はいきなりの質問に直ぐには回答できずにいたが、
「まあ、よくある確実な言い回しでその人を操るような占いは好きじゃないね。なんだか人を助けるみたいなこと言って、実はお金儲けしてるような感じもする史ね。でも、星占いは中国でもエジプトでも自分や自分の国を守る手段として利用されたし、何か人知の計り知れない奥深いものを感じてしまうけどなぁ」
 彼女は聞き入っていたが、自分で言い出しておきながら、そこに何も付け出すこともしなかった。
 「ありがとうございます。またいろいろ伺っていいですか?本当に今日は満足してうちに帰れます、ありがとうございました」
 何度もそう言ってお辞儀するので私は可笑しくなった。



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