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小説「ホーチミン・シティ」3

3 思い出のサイゴン

 翌日も彼女は私のために時間を取ってくれた。まるで日本人に特別世話になったことでもあるかのように振舞っていた。
 中央郵便局は、ホテルから歩いても左程ない距離にあったが、一緒に歩いて案内してくれ、旅行中増えた荷物を送る手続きに付き合ってくれた。日本を出るとき着てきた冬着も一緒に入れた。窓口で四十代くらいの男性係官が早口で何か云いながら荷物の中身を聞きあらためる。船便か航空便か、とか中身に制限があるとか説明しながら私が段ボールの箱を用意していないと分かると、荷物のそばに手際よく箱をいくつか拵えながら係官が書類に書き込み、私はそれを申告書に丁寧に書き込む。Just do it loosely. 彼女が私に知恵をつける。ワインなどの割れ物はだめですよ、と係官は言う、それを私が彼女の通訳を介して聞く。カンボジアのシェムリアップ空港で買ったワインは送ることが出来ずに終わったが、それ以外は何とか送れた。そのワインはずっと後で帰国する前に北京のホテルで私たちの胃の中に消えてしまったが…。
 この地では偉大なるホー・チ・ミンの大きな絵が二人を見下ろしていた。

 中央郵便局から通りに出ると、暑さも半端ではなく、よくこんな熱帯で人々は生活出来ているものだと感心していると、彼女が買った椰子の実を入れ物にしたココナッツジュースを私にもひとつくれ一緒に歩道に置かれた小さな木箱のような椅子に座ってストローで飲んでいた。
 何だかそんなひとときが幸せな気分だった。と同時に、私の心に芽生えたのは、既に彼らベトナム人の戦争が過去のものとなり、社会主義国にはなったとしても、自由主義国の都市の人々と同じようにこんなに自由に生きることができるのは一体何なのだろう、という素朴な疑問だった。
 サイゴン陥落で逃げるように南ベトナムの人達や米軍関係者が去ったここホーチミン・シティ(サイゴン)では、市場や街路でも今では人々はまったく闊達に動き回っているという事実に接することができた。日本と同じようにコンビニやフードショップに自由に入れる。市街戦もなくジャングルや農村で武器を持って戦うこともない。

 そこから二人は市街を歩き、横断歩道を渡って、とある美術館の前で記念撮影しようと私は携帯電話のカメラを向ける動作をする。ちょっとそれは駄目だと、敬遠するような仕草で私に目配せする彼女の表情は何らかのDNAの成せる技なのだろうか。私はそんなことにはお構い無く、極めて日本人的に振る舞って Natsu, no problem. It’s not a big deal.                   と決め込んでカメラをそのまま向けていた。

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 その後自転車を改造したようなシクロという乗り物が私たちの前に現れ、それに彼女が乗ろうと言い出したので、恥ずかしいという気持ちと嬉しさが入り雑じってぐずぐずしていると、その乗り物の持ち主のおじさんがまず彼女を乗せ、その後ろに私を押し込めて、ちょうど私の股のなかに彼女がすっぽり入るような格好で動き出した。
 その乗り物から見る眺めは、まるで列車の特等席のウィンドゥビューのように見晴らしが良く、片手で握るスマートフォンが撮影する街の情景は浮いているかのようだった。わくわくして楽しむ私の気持ちとは別に、車輪が揺れるたびに彼女の素肌も私の身体に触れていたから、一層高揚感が溢れる感じがした。何故なら彼女が身にまとった服はいわゆるアオザイで、太腿のところが切れたスリットワンピースだったから。
 自転車の動力は、おじさんの両足の漕ぐ力によって推進し、おじさんは公道を行く車の走行には支配されないとでもいった風に自分の行く道を進めていく。最初は大丈夫かと気を揉んでいた私たちもいつしかそれに慣れ、おじさんの動きと、三人が乗る「乗用車」がこの道を支配しているという実感がとても誇らしく思えてきた。つまりこれは、私たちがベトナムを一時的に支配しているのだというような空想が現実の世界にオーバーラップしているということだった。

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 目的地のコンチネンタル・サイゴン前に到着すると、おじさんも私たちを並べて記念撮影することを忘れなかった。ホテル入口前で立つ二人や、シクロに彼女を乗せて私が漕ぐポーズなどサービス満点に振る舞っていた。

 おじさんと呼んだが、実は彼は1952年生まれで、私と同世代だということを後で知った。きっといろいろ苦労したのだろう。
 戦争中は私と同じ小学生の年齢で、彼や、家族も含めて解放民族戦線の一員(通称ベトコン)として戦った。しかし彼にはなぜ戦うのかが分からなかった。彼を取り囲む環境が彼を南ベトナムにおける兵士(政府軍ではない兵士)にさせたのであって、彼が選んだ結果ではない。ホー・チ・ミン率いる北ベトナム(ベトナム民主共和国)は、南ベトナムの領域に解放民族戦線を作り支援した。ラオス、カンボジアに跨がる道路を開拓しながら補給路として確保し、石油を送るパイプラインも敷設した。彼らは勝つ運命にあったが、それは戦いが終わってからの話である。当時は誰も先の見えない無益ともいえる戦いに疲れ果てていた。この戦いで米軍の死者は、5万8千人を超え、一方「両ベトナム」軍の死者は民間人も含めて320万人とも言われている。
 ラオスを戦場のひとつにしたアメリカは、農村にダイオキシンによる被害を生み出した。ドミノ理論によるアジア非赤化という名の局地戦争は、非人間的な歴史の足跡を残すことになった。


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