煙草の煙が消えゆくように…『夏の砂の上』3日目
最近は観劇後にnoteを書くことで舞台を反芻し、その意味を深める作業になってしまっている。
ここはこうなのか、と思ったら、あれ?こうなのか?となったり。
伝えたい1本の筋はもちろんあるだろう。
ただ、受け取り方はそれこそ様々なんだろうということを前回のもしも命の時に感じた。答え合わせをして。
私と相方は違う考えだったから。そういう捉え方もあるのか、と思ったから。
圭くんも、伝えたいことはあるがこういう捉え方もあるのかともなるとのことだったから、もちろん圭くんの伝えたいことを掴みたいが、逆に驚かせるような捉え方もしてみたい、とも思う。
とはいえ、観れば観るほど、深くなる。
そんな中、治さんの好きなシーンが2つある。
まずは私のnoteに何度も登場している雨水を飲むシーン。
本当に乾いていたんだろう。
心身ともに。
雨水に躊躇したのに、いったん飲み出すと止まらない治さん。
砂のように乾ききった心に、身体に、きっとこの雨水はしみこんだことだろう。
そしてこの時の笑顔がとても好き。
ずっと淀んだほの暗い世界にいる治さんの世界に唯一明るい笑顔が見られたシーン。
目に焼き付いて離れない。
そして脳裏から離したくない治さんの笑顔でもある。
だって唯一治さんが幸せを感じている瞬間でもあるから。
もう一つ。
前回も思ったのに書き忘れていたこのシーン。
優子が位牌を見て明雄との関係を話すところ。
この治さんの、最後のセリフ。
戯曲だけでは分からない治さんの表情。
それを圭くんはなんともいえない柔らかな笑みで表現する。
この時の治さんの柔らかな笑みが好き。
一人欠け、二人欠けしている治さんの人生。
『いとこ』という言葉に『家族』のような温かい温度を感じたのだろうか。
たった3文字。
それがこんなにも柔らかな笑みにつながるのか!
と思うと同時に今気づいた。
『3』という数字。
おさむ
けいこ
あきお
ゆうこ
あさこ
じんの
もちだ
治さんに直接的に絡む人は皆3文字だ。
たてやま
さんだけが4文字。
確かに優子の相手ではあるが、治さんの人生には直接関わらない。
そして、失くす指も3本。
ここに何か意図はあるんだろうか?
単なる偶然か?
ポストトークを聞いた限りでは、恐らく偶然に思える。あの松田氏なら。
ある程度起こることは決めていると語ってた。同僚の死や優子が来ることは、と。
だからこれは単なる偶然だろう。
だったら書かなくても、とも思ったが、不思議な気づきに思わず書きたくなった。
ところで、前回の疑問は戯曲が解決してくれた。
前回私は、蝉の鳴き声により、優子と過ごした時間はひと夏かと思っていたが、ヒグラシからアブラゼミに変わったことで年単位かもしれないと疑問に思った。
そこで観劇からの帰宅後、戯曲を開いたところ、優子が旅立つのはあの2人して悦び分かちあった雨水を飲む日から数週間後だとわかった。
数週間後に別れが来たのか。
あんなに心身ともに疲れきって枯渇していた2人が、あの雨水で、同じタライから雨水を飲むことで、家族のように近づけたあの瞬間から数週間後なのか。
だから治さんの麦わら帽子をかぶされた顔はあんなに切なかったのか。
人生は出会いと別れを繰り返しているが、治さんには別れが多すぎる。
戯曲の最後のト書にはこう書かれている。
ここにあるのは、音、光、闇。
優子と暮らす日々は常に音があった。優子の声、バタバタという足音。
そして鳴き続けるセミ。
このまま家族のようになれるかもしれないという希望の光もあった。それがやっとタライを通して笑いあった2人に感じられた。
ひとつの物を2人で分かち合う。
近しい関係でなければできないことだ。
それがなくなってしまった治さんはまた独りになった。優子が語っていたトンネルの中だ。いつまでも抜けることの無い闇の中。
光が差し込んだ部屋をさえぎる指は3本欠けている。欠けた指は戻らない。
明雄と恵子と優子がもう戻らないように。
治さんにとっていろんなものが、タバコの煙のようにくゆりながら消えていった。
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