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繋がる三十一文字

私は小学6年生まで祖父母が商売をする家に母と同居させてもらっていた。その頃は伯母もいて、喧嘩しつつもにぎやかだったな。

祖父母の家は商売屋さんで土間がある家。
小さい頃は部屋と部屋を突き抜ける1mほどの幅の土間を飛び越え、目の前にある部屋に飛び移るのが怖かったー!
えーい!
と踏み切って
ポンッ!

でも、わざわざ土間に降りずに飛び越えていたんだよね。面倒なのと、ある種の遊びでもあったから。
いや、面倒なのが勝ってたかな?
面倒くさがりはこの頃から発揮!?

私が生まれる前の話をすると、商売柄、祖父母は朝早く起きて支度をしてた。
祖父は仕込みを、祖母は商売用の揚げ物や子供たち、つまり私の母たちの食事も作り、学校に興味を示さない祖父に対して祖母は母たちを大学に行かせるような、昔の人としては勉学に理解のある人だったの。
祖母が急性腸炎になった時、もしここで違う道、つまりは祖母がここで亡くなっていたら、私達は悲惨なことになってたわ、と母が言うくらい3人を大学と短大に、1人を専門学校に通わせ、祖母は母達に自由な道を歩ませた。中でも母は末っ子な分一番可愛がられ、バレエも大学にも通わせてもらった。

時を戻そう。
って、あの方のギャグだし。

私が生まれてからも祖父母は商売をしていた。
やめるのは、後に出てくる祖父が大病を患った時。

まずは祖母の話からしようかな。
祖母の光景として私が思い出すのは、今では懐かしい響きのロッキングチェアに座り、眼鏡を少しずらして歌う詩吟や短歌を作る姿。
綺麗な色の胡粉を持っていたこと。
にかわに触れちゃだめだよ、と注意してくれたこと。
それらの趣味はどれも先生のところに習いに行っていたもの。
今でも祖母が短冊に書いた歌が我が家の柱に飾られているし、日本画もあちらこちらと飾られている。
我が家は祖母の思い出に溢れている。

対して祖父は寡黙な人。時代劇と野球を好んでいたから、テレビが1つしかなかった当時は好きな番組が観られないし、やっと買ってもらったビデオも野球の延長で、一時野球自体を恨んだよ。
そんな私が、あの流行病が来るまでは観戦に行ってビール飲んでタオル回す日が来るとはね。

でも、祖父は、肺がんを患い寛解してからはとても優しい人になった。大病を患うって凄いことなんだね。まるで人が変わったもの。

祖父の姿で思い出されるのは、庭で座って草むしりをしてる背中。
お陰で庭には草ひとつなく、庭に草が生えるなんて知りもしなかった!
それが今や草しかない家になるとは!!!
祖父のありがたさが身に染みている。
おじいちゃーーん!
ありがとーー!!!

話を祖母に戻すと、祖母はお金の大切さを知ってるが故に、親戚でもなんでもお金をあげたがったのよね。家がキツキツでも。だって、肉じゃがなのに肉なしじゃがじゃがだったもん。
だから認知症になると、私を呼ぶ度ににこにこしながらお金をくれて、ありがとう、と言ってそのお金を封筒に戻すという日々を繰り返していたな。
今でもにこにこしてる祖母の顔が思い出されるよ。

そんな祖母が亡くなり、母も歳を重ねた頃、急にカルチャーセンターに通いだし短歌を始めた。
祖母の血が開花した瞬間!!

カルチャーセンターで新しいお友達も増え、そこに通うのが楽しそうだった。隔週ある教室の講義までに3首を作って先生にFAXし、教室で各自発表し合い、批評していたみたい。教員をしていた母はこの批評が得意そうだった。色々感想も聞いた。

母は時に、これはどう?と会社にいる私にLINEで短歌を送ってくることもあったよ。
いや、仕事だから、と思いつつ私は添削した。
この時の私は添削が得意で、いまいちなものはダメと言い、ここがこうで意味が通じないとか、この言葉があんまり、とか。実は添削は楽しくもあったんだよね。
でも何か私が言葉のヒントを言おうものなら、それはいらないと逃げるようにして母は推敲していった。その気持ち、後日知ることになるんだけどね。

母が応募していた某新聞に年に2、3回載ると、早起きが苦手な母の元にお友達から電話がきて、載ってるよと教えてもらっていた。だから、電話がない時は載ってない、ということにもなる。無い日が多かったけど。
母はこの他にも源氏物語や太極拳にも通っていて、日々を満喫していた。

そこに突然あのウイルスがやってきた。
初めは不安に思いつつ普通の生活を送っていた。

でも、一向に収まる気配をみせない。今現在も。
母は肺疾患を持っているから、都内のカルチャーセンターだった源氏物語から辞め、市内の太極拳も辞め、大好きだったこの短歌のカルチャーセンターも辞めてしまった。
それからは家事中心の生活で、仕事を辞めてから勉強の楽しさを知った母は、家事で勉強ができないと、気分が悪くなる日もある。働いてきたからか、実際お料理おいしいのに料理なんて大っ嫌い!っていう人だからね。
なにしろ、退職して私は自由だ!っていう内容の短歌も詠んでたくらいだし。
そんなだから、まぁ、文句も出るよね。

私もこの長引くウイルスの影響で毎年検査している胃カメラで、何の異常もない綺麗な真っピンクな胃なのに、胃が張るようになりやすくなって、好きなビールもアヒージョも飲食できない。
先生曰くストレスだ、と。

何しろ母自身も私も大好きだったアフタヌーンティーの季節のパスタなど外食ができないし、友達とも推し活仲間とも遊べない!!
美術館にも行けない!隣の市のガラガラの映画館にも当時は母が怖がって行けなかった。

私も母同様、この状況にくさってしまった。

そんな時に、この流行病の前からずっと言われてた、短歌でもやってみたら、という母の言葉が浮かんだ。
添削は得意だったから、やってみるかな?という気持ちになった。

とうとう、祖母から始まる短歌のリレーのバトンが私のとこまで渡ってきた!!

そうしたら、これがまた難しい難しい。
なにしろ三十一文字の中に想いを込めなくてはならない。題材を探さなくてはならない。

初めの頃は題材には困らなかった。作るのが楽しかったから。寝る時に考えを巡らせて、あ、これ行けそう、とか思いついたりして。
ただ、それが上手く作れるかというとそうではないし、家には10年ほど先生に習ってきた短歌の先輩がいる。
だからうまくできないとここをこうしたら?と言われ、「それじゃ私の短歌じゃなくなる」と、相談にはのってほしいのに回答はほしくなくてごねたことも。
形勢逆転さ。

母は学んできた分、私より作るのが上手かったし、だからこそ、普段あまり負けず嫌いではない私が、悔しかった。母は私にもっと負けず嫌いであってほしかったらしいが、皆に可愛がられて育ったから、のほほんとしちゃって競争心がないらしいよのね。

そうしてできた短歌は某新聞に投稿した。これがまた大変!
だって、手書きなんだもの。ボールペンで一文字一文字書いていくけど、どうしても間違えてしまうことがある。人間だもの。相田先生の言う通りよ!!
母の経験上、そこの新聞は1ヶ月くらいで載ってなかったら採用されなかったということらしい。

そういている間にも流行病は、一向に収まらないし、とうとう私は短歌のバトンを落としてしまった。

そうする間に今度は推し活に夢中になった。バトンはまだ落ちたままで。

ところが、長らく推し活してて、あ!!と気づくのよ。
推しを彼として詠もう!!
って。
はい、バトン拾ったよ。

そうして今度はネット応募できる某新聞の歌壇に送ることに。
未だ選ばれてないけど。
でも、祖母から繋がれた短歌のバトン。
まさか推し活に繋がるとは!!!
なんだか短歌がより一層楽しくなった今日この頃。

おばあちゃーーん!
短歌の道、3代続いたよー!!



#一歩踏みだした先に

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