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【Story of Life 私の人生】 第50話:守銭奴への道 まっしぐら Part 1

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生
気がつけば、このブログを書き始めてから50話になっていました。
いつもお付き合いいただき、ありがとうございます♪

前回は、 第49話:闘病生活の始まり Part 3 をお送りしました。

今回から、二年生以降のアルバイトについてお話ししようと思います。
今日は、まず新聞配達をしていた頃のお話です。

二年生の時点で、大学の薬学部に進学するという道を完全に諦めた私。
その時点で「勉強する気は全くなし」の状態になっていたから、最低単位の履修で卒業することを選択しました。
三年生の時は、卒業に必要な最低単位だけ選択して、月曜、火曜、木曜、土曜は1時間目から4時間目の午前中だけ、水曜は3時間目から5時間目だけ、金曜は3時間目と4時間目だけという「学校は、ほぼ午前中だけで終わり」という生活でした。
今思えば、学校生活への興味を完全に失ってしまったことが大きかったのかな。
そうなると、生活のモチベーションは「お金を稼ぐ」にシフトしてきました。

前回お話ししましたが、一年生の3学期の終わりに退院して、2日後に復学。
期末試験と追試をクリアして、どうにか二年生に無事に進級しました。
放送部にも復帰しましたが、活動はお昼休みに流す「音楽放送」を当番でやることと、週2日放課後に集まるだけだから、体力的な負担は殆どない状態でした。
4月中はほぼ「帰宅部」状態で、ダラダラと過ごしていたのですが、正直なところ、少し「物足りなさ」を感じ始めていました。

天皇誕生日(今は、昭和の日ですね)の日、一年生の夏休みに新聞配達のアルバイトでお世話になった新聞販売所の所長さんが、我が家の新聞代の集金にやって来ました。
その時「今、配達員の人手が足りないから、朝刊だけでもアルバイトしないか?」というお話をいただきました。
朝刊の配達だと朝4時に起きることになります。
学校はほぼ「帰宅部」状態だから、夜の時間はたっぷりある訳で、夕飯前に昼寝も出来るし、父の「ジャイアンリサイタル」が終わったらすぐに寝れば良いだけ。
また、入院中に落ちてしまった体力回復のリハビリになるし、「早起きは三文の得」=「お金稼ぎ」だから、私にとってはまさに「一石二鳥」だった訳です。
両親には反対されましたが、私は即座に快諾し、5月1日からスタートすることになりました。

朝刊の配達は、4時半に販売所に行き、自分の担当区域の配達をして、7時に終わりだから、労働時間は2時間半。
もし早く終われば、帰って良いことになっていました。
配達漏れなどがあると「1件に付き何円」というペナルティがあり、給料から減額されるシステムでしたが、前年の夏休み期間中に2ヶ月経験しているから、1日の給料は1250円で固定するということでした。
時給に換算すると500円、当時の相場を考えると、かなり破格でした。
年に数回の休刊日以外に休みは無いから、1週間で8750円、月30日やれば37500円になります。皮算用だけで、既にワクワク状態になっていました(笑)

さて、2日後の5月1日の朝、ジャージ姿で販売店に行きました。
新聞奨学生が多い販売所でしたが、前の年に一緒だった方達は皆卒業しており、新しいお兄さん、お姉さん達がいました。
配達部数が急激に増えたから、既存の2つの配達区域を3つにするということで、その中の1つを担当することになりました。
初日は、私が受け持つ区域+不要の区域(=元の区域)を、お兄さんと一緒に回ることになりました。
配達区域は近所だから、順路帳を見ながら配達の順番を頭に入れていきました。
中学時代の同級生の家も何軒か入っていたので、かなり覚えやすかったです。

そして翌日からは、自分の配達区域を、一人で回ることになりました。
運動不足だったから、最初の1週間は、かなり酷い筋肉痛になりましたっけ。

雨の日は本当に大変でした。
新聞を濡らしてはいけないから、いちいちビニール袋に入れなくてはならず、余計な時間がかかる上に、カッパを着ていても全身びしょ濡れ…
梅雨の1ヶ月くらいは、本当に地獄でした。
我が家にはお風呂がなかったから、梅雨のシーズン以降は、他のお兄さんやお姉さんと一緒に、販売所でシャワーを浴びさせてもらい、家に帰ってから学校に行くようになりました。

5月分、6月分のお給料は、税金を引いて33750円づつ貰いました。
「最低半分は貯金する」ことに決めていたけれど、手持ちで17000円弱も必要ないから、28000円を貯金に回して、残りをお小遣いにしました。

余談ですが、親からのお小遣いは約束通り月1万円を貰っていました。
入院中も約束通り支給されましたが、学費の5800円は支払う必要があるので、残金の4200円を貰っていました。
入院中に使うお金は、売店でお菓子やパンを買うくらいだったから、使ってもせいぜい2000円くらい。
残りは貯金に回して貰っていましたから、気がつけば、入院期間中でもそれなりにお金が貯まっていました。
母は、入金する都度に通帳を見せてくれました(恐らく、ネコババしたと言われたくなかったのだと思います)から、どんどんお金が増えていくことに快感を覚えるようになっていきました。
今思えば、病院の費用を請求されなくて、本当に良かったです(汗)

7月の中旬、1学期の期末試験が終わるとすぐに試験休み。
ほぼ夏休み状態になったところで、所長から「夏休みが終わるまで、夕刊もお願い出来ないか」と言われました。
配達区域は朝刊と一緒だけど、夕刊を取っていない家もあるから、軒数は8割程度。
ということで、夕刊の固定給は1日あたり1100円払うということでした。
日曜は夕刊はないから、夏休み期間中40日の追加収入で、これだけで44000円!
学校に行かなくて良いから、夕刊配達までの時間は家で昼寝していれば良いと思い、今回も即座に快諾しました(笑)

その頃の私は、両親から嫌味ばかり言われる日々にうんざりしていた時期で、なるべく顔を合わせずに済むことばかり考えていました。
アルバイトは、「家から外に出る口実」になる上に、「自分のお金を稼ぐ手段」だから、これを使わない手は無いというのが、正直なところでした。
また、販売所のお兄さんやお姉さん達も、学校が夏休みになり、ほぼ毎日、朝晩一緒にいるようになったことで、今まで以上に仲良くなりました。
日曜は夕刊が無いから、朝刊の配達が終わった後に、皆で一緒に遊び歩くようになっていきました。
実は、この頃にディスコデビューをしており、ディスコ通いは、日曜の夜の「お約束行事」になっていきました(笑)

夏休みが終わり、9月からは朝刊だけの配達に戻りましたが、日曜のディスコ通いは続けていました。
翌日の配達があるから、5時の開店時に入って、9時にはお店を出て帰宅していました。
10時過ぎに帰宅すると、両親から「帰りが遅い!」と言われ口喧嘩になり、体罰のおまけもつきましたが、それこそ「自分で働いたお金」で遊んでいるのだから、お金に関することについては、何の迷惑も掛けていないので、その点に関する文句だけは言わせませんでした。

そんな日々が続くから、両親とのギクシャクした関係は、どんどん悪循環スパイラルに陥っていき、しまいには「顔も見たくないし、口も聞きたくない」状態になっていきました。

9月の定期通院で、薬のコントロールが出来ていない状態になっていることが分かり、1年ぶりの入院が決まりました。
ただ前回とは違い、緊急入院ではなく、病室が空いたらということだったので、入院するまで10日くらいの猶予がありました。
母と一緒に販売所に行き、入院が決まったことを、所長さんにお話ししました。
この時、「退院したら、戻って欲しい」と言ってもらいましたが、いつ戻れるかわからない状態なので、皆さんに迷惑が掛かるからということで、翌日から2日間、自分の担当地区の順路を引き継いで、辞めることになりました。
仲良しのお兄さん、お姉さん達が「お別れ会」を開いてくれましたが、その時に「退院したらまた遊ぼう」と言ってくれ、とても嬉しかったです。
この時は1ヶ月程度の入院でしたが、お兄さん、お姉さん達は、毎週日曜の昼間にお見舞いに来てくれました。
退院後、私は新聞配達のアルバイトに戻ることはありませんでしたが、私が高校を卒業するまでの間、お兄さん、お姉さん達との交流はずっと続いていました。

二年生の頃は、一度退院してから、数週間後にもう一度1ヶ月程度の入院をしましたから、暫くの間はアルバイトはせずに「大人しく」していました。
年末年始は、郵便局で年賀状の仕分けをするアルバイトを12月25日から1月8日までの2週間だけしました。
時給は400円だったけど、1日5時間のシフト制で14日間。
この2週間で28000円、手取りで25200円になり「貯金がまた増えた」と大喜びしていたことを覚えています。
また、新聞配達のアルバイトで稼いだお金は、5ヶ月間合計で24万円位、税金を引いた手取りで21万円位になりました。
自分のお小遣いとして月5000円前後取って、残りは全部貯金したから、私の貯金残高は、2年間で30万円を余裕で超えていました。

お金でワクワクするって、完全な守銭奴状態ですよね(爆)
あの頃の私は「お金至上主義者」だったのは疑いようもありません。
次回は、その後のお話をしようと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第51話:守銭奴への道 まっしぐら Part 2 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪


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