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【Story of Life 私の人生】 第34話:中学校入学

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第33話:中学校入学直前 〜 入学準備編 をお送りしました。
今日は、中学校入学から1ヶ月くらいまでのお話をしようと思います。

制服を受取った3日後の1976年4月9日に、私は中学校に入学しました。
真新しい制服に身を包み、学生鞄を持って、校門をくぐり、壁に貼られているクラス名簿を確認して「スリッパ」に履き替えて自分の教室へ入りました。

一年生は6クラスあり、ローマ字でA組からF組。
さすがに小学校とは違うなぁと、妙に感動!
私は1年F組になりました。
私の通っていた小学校が学区変更をしたおかげで、何とか6クラスになりました。
ということは、元々の学区の小学校からは2クラス相当の人数しかいなかった訳で…
少子化の時代でもないのに、公立の中学校で2クラスはあり得ないですよね。
「廃校の危機」っていう表現は、あながち間違っていなかった訳です。
なぜ急に学区変更になったのか、妙に納得した覚えがあります。

余談ですが、上級生達は4クラスしかなく、1クラスの人数も私達の学年よりも10人以上少なかったです。
やはり元々の学区の小学校からは2クラスくらいの生徒しかいなかったようですが、区内で一番有名な「進学校」だったことと、野球が強くて、都大会の優勝常連校であり、ほぼ毎年、全国大会に出場していた学校だったので、残り2クラス分相当の生徒は、思い切り勉強して良い高校に進学したいか、野球をしたいかで、わざわざ越境で入学してきていたというのが実体でした。

話を元に戻します。
私達の担任の先生は、数学の先生で、野球部の監督をされていました。
当時、野球の強豪校だったこともあり、かなり有名な先生でしたが、勉強にしても、野球にしても、とても厳しかったです。
入学式の前に、先生からお話がありましたが、その内容にビックリ!
「今年の新一年生は、区内一の頭の良い学校と、区内一のバカ学校の混合」
「学校のレベルを下げることは絶対に出来ないから、容赦無く指導する」
「区内一のバカ学校」って、私達のことを指している訳です。
確かに進学校では無かったし、勉強よりも行事優先の学校だったとは思うけど…
同じ小学校から来たクラスメイトは、私も含めてみんな下を向いてしまい…
頭の良い方から来たクラスメイトから「笑われているよう」に思えてきて、さすがにショックを受けました(泣)
朝はルンルンとバラ色気分で学校に来たのに、来てから1時間もしないうちに、いきなり崖から下に突き落とされた感が満載の状態で気分は沈んでしまい。
そんな状態で体育館に移動し、入学式が始まりました。
上級生と父兄が見守る中、入学式は粛々と進んでいき、父兄も入ってクラス毎に記念撮影をしました。

入学式が終わって教室に戻ると、教科書一式と、時間割が配られました。
その日は金曜日だったので、翌日土曜日から、正真正銘の中学生生活がスタートすることになりました。
貰ったばかりの教科書を、真新しい鞄に詰めて、体操着を受取って帰宅。
全教科の教科書が入ると、鞄はかなりの重さになっていました。
ましてや、ランドセルとは違い、片手に全重量がかかる訳で…
まだ、鞄を持ち歩くことに慣れていないこともあり、途中何度も鞄を道に置いて、持ち替えながら、休み休み帰宅したことを覚えています。
初日で既に両腕はパンパン、筋肉痛状態になりました。
グレーの曇り空のような気分で初日が終わりました。
帰宅すると、スカートのプリーツにアイロン掛け。
アイロン掛けは不得意だけど、さすがに母はやってくれないので、この日から「家に帰ったらスカートのアイロン」が毎日のルーチンとなりました。

余談ですが、私は学区変更が無くても、この中学に入学することになっていたので、学校から家までの通学時間が15分程度。
同じ小学校から来た同級生の中では一番家が近かったのですが、一番遠い子は確か徒歩40分位あったと思います。
ましてや、坂道のアップダウンがかなり多いエリアで、自転車通学は一切認められていなかったから、かなり大変だっただろうなと思います。

翌日は、土曜日だから学校は半日だけ。
終日オリエンテーションになりました。
それぞれの教科を教えてくれる、担当の先生方の紹介とご挨拶がありましたが、どの先生も、私達の担任の先生の第一声と全く同じ内容のお話で…
改めて「私たちが卒業した小学校は、そんなにバカ学校で有名だったのか!」「この学校から、全く歓迎されていないのではないか?」と思い知らされた気がしました。

学年全体の人数的には、2/3は私の元同級生が占めているので、多勢に無勢感はあるものの「学校のレベルを下げるな」ということが第一ミッションのような気がして。
その時、小学校で転校してきた時の事が頭をよぎりました。
当時、2つの幼稚園グループがあり、対立関係になっていたのですが、それと全く同じ状況にならないかなと。
1年を通じて、一致団結と絆を育んできた、私の元同級生150人と、別の学校から来た80人弱の2グループが、対立したまま3年間を過ごすのだけは、絶対に嫌だなぁと思いました。
また、先生の家に住んでいた時の「見下され感」を味わうのも、絶対に嫌でした。
なんだか理由もなく「絶対に負けるもんか!」と思った私。
私だけはではなく、みんな同じ気持ちだったと思います。

一方、野球に関しては、私の通っていた小学校の生徒が所属していたリトルリーグのチームが、都内でかなり有名な強豪チームだったので、野球部にはリトルリーグ時代のスター選手が全員入部しました。
私達の学年は、他の学区から「野球」を理由とした越境入学が認められていなかったので、学校側としてはスター選手が多数入学してくれて、とても助かったのではないのかな(笑)

話を元に戻します。
オリエンテーションの後は、各クラスに戻って、ひとりづつ自己紹介。
その後、掃除や日直などのグループ決めや、各委員会の担当などを決めました。
グループに分かれての話し合いでは、他の学校から来た子たちに、色々と話しかけてみました。
すると「中学受験に失敗したから、この学校に来た」という子ばかりで、ある意味カルチャーショック!
皆が「私は劣等生だ」と口々に話すのがとても印象的でした。
いやいや、劣等生は全部の先生が認めている「区内一のバカ学校出身」のこちらだってば(笑)
12歳の子供でも、たった一度の中学受験に失敗しただけで、これだけ傷ついてしまったという訳です。
同級生なのに、こちらがとてもいたたまれない気持ちになりました。

翌週から、通常の授業が始まりましたが、授業のスピードが半端ない!
でも他の学校から来た子達は、やはり皆さん「頭の出来」が違っていて(笑)
進学塾に何年も通っていた子が多く、私たちが初めて習うことも、既に全部知っていました。
進学校を自負している中学校だったので、どの教科も、毎日の宿題の量が半端なかったのですが、彼らは家に持ち帰ることはなく、授業が終わって休み時間になると「涼しい顔」で宿題をし始めていました。
それを見た私たちは「これ教えて〜!」と、彼らを取り囲むようになりました。
今になって考えてみれば、相当迷惑だっただろうなと思うのですが、当時の私たちは、授業について行くだけでもかなり必死だったので、当然「出来る子」のところに群がる訳です。
そうこうしているうちに、私たちも何となくですが「彼らの勉強のやり方」みたいなものを覚えていった気がします。
一方で、彼らも、少しは受験失敗のトラウマから解放されてきたのかも知れません。
私たちが群がっても、嫌がらずに教えてくれるようになっていきました。
クラス内に分裂したような雰囲気もなくなり、4月が終わる頃には、みんなの表情が生き生きとしていました。

そんなスタートを切った中学生時代。
クラブ活動もスタートし、ここから3年間様々な失敗や体験をしました。
そのお話は、ぼちぼちして行こうと思います。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第35話:クラブ活動 Part 1 〜 課内クラブ に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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