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【Story of Life 私の人生】 第31話:辛い別れ

こんにちは、木原啓子です。
Story of Life 私の人生 
前回は、 第30話:六年生 Part 4 〜 水泳競技大会と音楽発表会 をお送りしました。
今日は学校の話題ではなく、小学校卒業直前に起きた辛い別れのお話をしようと思います。

お正月が終わると3学期がスタート。
1月から2月にかけて、私にとって辛い別れが2つ続きました。

1月28日の夜、突然、生まれた時から私をずっと可愛がってくれていた、独身寮のお兄ちゃんが夢に出てきて、笑顔で「バイバイ」と言いて、すぐにいなくなりました。

なんだか胸騒ぎがして、隣の部屋で寝ていた母を起こして、今見たばかりの夢の話をしていると、電話が鳴り…
お兄ちゃんの奥さんからでした。
その日は、夕飯を食べて、子供と一緒にお風呂に入って、寝かしつけていたそうですが、突然「胸が苦しい」と言って倒れたそうです。
すぐに救急車を呼び、病院に向かったのですが、途中で心肺停止となり、病院に着いてすぐに息を引き取ったということでした。
「急性心筋梗塞」だったそうです。
その時、お兄ちゃんはまだ30歳になったばかり。
職場結婚して5年くらい、4歳と、生まれて半年くらいの娘さんがいました。
息を引き取った頃に、私の夢枕に立ってくれたことが分かり、本当に驚いたという気持ちと、悲しさと、残された家族に対する気持ちが交差して…
可愛がってもらった12年間の楽しい思い出が走馬灯のように流れていき、私に「バイバイ」とお別れを言いにきてくれたことに感謝しました。
母は、自分の子供同様に思っていたから、本当に辛かったと思います。

お兄ちゃんの実家は東北の田舎、今のように新幹線や飛行機もない時代です。
ご両親も親戚も、上京するのに丸1日かかるということもあり、翌朝学校を休んで、母と一緒にお兄ちゃんの家に行きました。
母と奥さんが葬儀の手配を進めている中、私は子供達の面倒を見ていました。
「パパ、何でずーっと寝ているの?」という娘さんの一言が、本当に辛かった。
4歳の幼稚園児には、一体何が起こったのか理解できる筈もなく。
かといって「パパは死んじゃったんだよ」とは、とても言えなかった…

ご両親と親戚の方々が夜に到着し、母が作った夕飯を食べながら葬儀の打合せをしていました。
翌日がお通夜、その次の日が告別式となり、お兄ちゃんの実家でも告別式をすることになりました。
私と母は、夕飯が終わってから帰宅しました。

翌日私は普段通り学校に行き、母は朝からお兄ちゃんの家に手伝いに行きました。
その日がお通夜だったので、私は学校から帰宅して直ぐに、父と一緒にお兄ちゃんの家に行きました。
葬儀の日は土曜日だったので、私は学校を、父は仕事を休み、朝から家族3人でお兄ちゃんの家に行き、葬儀の参列とお手伝いをしました。
お通夜、告別式ともに、独身寮のお兄ちゃん達が勢揃いし、受付や案内などのお手伝いをしていました。
集団就職で上京した時から、ずっと同じ会社で15年の間、寮で一緒に暮らし、職場でも一緒に過ごしてきた仲間の突然の死。
お兄ちゃん達の号泣する姿が、今でも忘れられません。

一方で、久しぶりにお兄ちゃん達全員に会う事ができて嬉しかったけど、こんな場での再会は複雑な思いでした。
お兄ちゃん達と最後に会ったのは、母が亡くなった時だから、もう30年以上前になります。
私より18歳くらい上だから、今は75歳くらいかな。
お元気に過ごされているのかなぁ。
後日談ですが、奥さんはその数年後に再婚されたそうです。
2人の娘さん達も、今はアラフィフ世代になっている筈。
どうしているかな?
元気かな?とたまに思い出します。

もう一つの別れはその後すぐ、2月10日のことでした。
学校から帰ってきて、母と夕食の支度をしている時に電話が鳴りました。
行田の叔母からで、叔父(母の一番上の兄)が、マンホールの工事中にくも膜下出血で倒れ、そのまま亡くなったとのことでした。

水道屋は従兄弟が後を継ぐことになり、叔父が仕事を教え始めたばかり。
その日も、2人で一緒にマンホール工事の作業をしている最中だったそうです。
従兄弟に「いつお嫁さんが来ても良いように」と、家を新築したばかりで、1月の成人の日に、親戚が集まって新築祝いをしたばかりでした。

余談ですが、水道屋だから、当時まだ普及していない「ウォシュレット」付きのトイレ、リモコン付きの給湯器など、水廻りは贅を尽くしていました。
新築を境に、トイレは外に行かなくても良くなったことが嬉しかった(笑)

話を元に戻します。
翌日が建国記念の日で祭日。その夜が通夜で、翌日が告別式となりました。
11日は学校が休み、翌日は忌引きとなりました。
母と私は、11日始発のバスで行田に向かい、手伝うことになりました。
その頃には、高崎線の吹上駅からバスが走るようになっており、バスの終点から徒歩20分程度で行けるようになっていました。
バスを降りてから歩く時間は、以前とさほど変わらないけど、小さい頃に比べると、道も格段に良くなっていたし、何しろわざわざ熊谷まで行って、秩父鉄度に乗換をする必要がなくなり、かなり早く楽に行けるようになっていました。

葬儀は自宅で、埋葬は母が育った親戚のお寺でということになりました。
また、叔母の(母の姉)嫁ぎ先が、お寺指定の石材屋だったので、墓石は叔母の家にお願いすることになりました。
母は葬儀用の料理を一手に引き受け、仕切っていました。
私は、小さい時から店の電話番や留守番をしていたこともあり、知り合いがかなり多かったので、お寺や親戚、業者さんなどとの連絡係になりました。
そういう意味では、子供ながらも、かなりの「適任者」だったようです(笑)

行田の家に久々に泊まりましたが、新築されてから初めてだったので、今までとは勝手が違いすぎて…
逆によく眠れなかった気がします。
父は、仕事を休んで翌日行田に来て、葬儀に参列しましたが、行田には数回しか来たことが無かったと思います。
私たちとは待遇が大違い!
親戚が吹上まで車で迎えに行きました(笑)
ずるい!

葬儀が終わると、父は東京に戻りましたが、私と母は、片付けの手伝いがあるので、もう1日残り、翌日の午後に帰りました。

私と母だと、当然誰も駅まで送ってくれず…
貰ったお土産を抱えて、バス停まで歩きました(笑)

練馬に行ってから直ぐに、田植えや稲刈りは機械化したこともあり、行田に行くのは夏休みだけになっていましたが、先生のお宅に住んでいた最初の3年間は、夏休みの半分は一人で預けられていたし、小さい頃から叔父の仕事の手伝いをしてきたので、もう会えないと思うと、やはり辛くて、寂しさが湧いてきました。

「親兄弟には絶対に頼らない」という強い信条を持っていた母。
子供の頃、叔父と一緒に暮らした時期は本当に短かった筈だけど、母方の兄弟姉妹の中では、一番仲が良かったのかも知れません。

余談ですが、叔父が亡くなるまで、母はお盆前後に数日泊まって手伝っていましたが、叔父が亡くなってからは、私が中学生になったこともあるのでしょうが、日帰りで8月15日にお墓参りに行くようになりました。
叔母は、直接の血縁者ではないから、そういう意味での遠慮や居心地の悪さがあったのかも知れません。
実際、私も母が亡くなってから、行田の親戚とはかなり疎遠になりました。
父が直接の血縁者で無かったことが一番大きな原因だったと思います。
(行田の叔母と、私の父だと、何の繋がりもありませんから…)

母が亡くなってから数年の間は、誰かが結婚するとか、子供が生まれたなどの連絡がありましたので、お祝いを届けていたのですが、それから数年経つと、そういう連絡も全く入らなくなりました。
振り返って考えてみると「親兄弟に頼らずに生きる」という母の信条は、ある意味正しかったのかも知れません。
両親が他界し、兄弟姉妹もなく、親戚とも繋がりがない現在の私。
寂しいといえば、寂しいですが、一方では、大切な友人との出会いがあり、繋がりがあり、良い関係を築くことが出来ているという、幸せ者です。
もう、ご縁に感謝しかありません。

〜続く

今日はここまでです。
次回は、第32話:小学校卒業 に続きます。

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
またお会いしましょう♪

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