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映画「レオニー」松井久子監督2010年制作(日米合作)を観て

イサム・ノグチの母レオニー・ギルモアの伝記。米国人のレオニーが大学で、また家庭で受ける女性差別に果敢に、しかしフェミニスト運動とは合流せず、極個人的に闘って生きる伝記である。野口米次郎と愛しあうようになるが、家父長制の強かった日本人男性の身勝手さ、妊娠が男にとって愛の終わりを告げるものならば、妊娠は女性にとって苦労と喜びの始まりなのか。そして、米国人である妻レオニーの肌を白磁のようだと感嘆するノグチはささやかな差別を行っている。日本のロシア侵攻によってカリフォルニアで日本人排斥が過激になりレオニーは子供のためにノグチからの来日の申し出を受けるが、日本ではさらに文化の違いから激しい孤立感に苛まれることになった。既に英語が堪能な文化人3人に英語と文学を教えながら生活するが、その生活は豊かではなかった。

この頃から観ていて涙が止まらなかった。異国の地日本で、愛する人、野口米次郎に裏切られて息子と娘三人で生きていくその精神的支えは芸術への愛と信頼(こう書くと軽々しくて違うような気がするが当時の芸術家は文字通り人生をかけ芸術を愛した)、芸術至上主義的精神の高みに至った者だけが享受できる、だがその底流に流れているものは万人に共通する「存在」そのものだという境地に至るレオニーの生き方が刻一刻とその美貌の顔(かんばせ)をやつれさせ、余計なものを削ぎ落し、人生を受容し「愛」と「存在の肯定」そのものに迫っていく過程だということに感動する。

言葉は通じなくとも、お手伝いさんの女性から例外なく愛されたのは、レオニーが自立して必死で生きるその生き方に人間として共感しうるものが伝わったからであろう。

そして、その自主独立の生き方はレオニーの母親から受け継がれ、レオニーを介して子どもたちへと引き継がれていく。

野口米次郎とは、男女の愛憎を超えて、その創作への尊敬から編集者として関わりを続けていたが、やがてその軛からも解放され、レオニーは母と同じ様にアメリカの大自然に抱かれて生きることを選択する。
日本の軍国主義がいよいよ苛烈になりイサムノグチをアメリカに逃れさせるときに、まだ家族という支配を続けようとする米次郎にレオニーが片言の日本語で言った「ワタシハ、アナタノ、イヌデハナイ」という言葉に喝采を送った。

松井久子監督にこの素晴らしい映画を撮ってくださったことに絶大なる感謝と讃辞を贈りたい。アマゾンプライムビデオで観られます。

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