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「評伝 伊藤野枝」堀和恵著 を読んで

伊藤野枝と大杉栄は明治に生まれ、大正末期に虐殺された。大正時代というデモクラシーとロマンの時代の底に流れる闇のようなものを読み取りたい。

その闇は、昭和4年の大恐慌を経て、独裁軍国主義へとなだれ込む。だが、昭和12年にはまだ「君たちはどう生きるか」が出版できるほどには言論、出版の自由があったのだ。

しかし、大杉も野枝も昭和まで生きてはいない。大正の底を流れる闇にやられたのだ。それは、多分富国強兵の政府にやられたのだから、無政府主義者として正しかったのだろう。

元広島市長の平岡さんが、「今は理不尽さに対する怒りがない、憎しみではない怒りがない」といったが、野枝の足尾鉱毒事件への怒りと同じだと思った。

「『元始、女性は実に太陽であった』と謳った『青鞜』の平塚らいてうに対して、野枝は『吹けよ、あれよ、風よ、あらしよ』と謳っている」。

最初の夫、辻潤は高校時代の師であり、野枝が「青鞜」でものを書くようになり、翻訳を行うようになってからはそのエデュケートの人でもあった。しかし、辻潤は世間にニヒルを感じ、高校の先生を辞め、働くことをしなかったため野枝が生計を担うようになっていた。そして、足尾鉱毒事件への野枝の怒りに対して冷笑的だった辻潤との埋めがたい精神の違いが浮き彫りとなり別れることになった。

そして、生活を助けてもらっていた平塚らいてうとも、その思想の違いから疎遠になる。大杉が野枝とらいてうと比較した時、「社会革命抜きの自己革命」とらいてうを批判したごとく、二人の生きる道が交差してまた別れたのである。

伊藤野枝という人はヴァイタリティに溢れ、自分の中に凛とした人間愛の「芯」を持っていた。若いころは、出産間際まで執筆し、出産後間もなく出版の仕事に復帰している。苦難が降りかかれば内側から燃え立つ野枝の心は、自由恋愛を標榜していた大杉の女性関係をも凌駕し、最後に世間の非難轟轟の中、大杉の唯一のパートナーとなるのであった。

野枝は大杉の精神と響き合い、エマ・ゴールドマンの精神から滋養を与えられ、その人生を完成させた。

野枝の夫婦観、人間観から出た言葉。「フレンドシップ」「友情とは中心のない機械である」=中心が無くとも、それぞれの連絡により機能して全体を形作っていく、それを機械に準えた。この言葉だけを切り取れば誤解を招く可能性があるが機械というよりは関係性とでもいうべきものだろう。

だが、母親としてはどうなのか?名前に子供への期待と共に制約(呪縛)を与えてはいやしまいか。野枝の子供たちは母親を恨んだという(寂聴さん曰く)、だが子どもたちは、なぜ父親である大杉を恨まなかったのか?責任は半々だろう。ところが、大杉は子煩悩でよく子どもたちを乳母車に乗せて近所を散歩して面倒を見ていたという。辻潤の長男一(まこと)もよく大杉・伊藤夫婦の所へ遊びに来て可愛がられていたようである。後に、野枝がどれほど子と別れることを悲しんだかの描写がなされ、野枝が世間で言われているように子どもを放っておいて自分のことにかまけていたという姿ではないことがわかる。後に子どもたちのその後が描かれているが、子どもたちが辛かったのは両親の活動そのものではなく、それに纏わる世間の嫌がらせだったようだ。

1920年5月に日本で初めてのメーデーが上野公園で開かれた。そして同年12月には、大杉栄、堺利彦、山川均らとともに、アナキストからマルクス主義者まで含めて、ひろく社会主義者を集めて「社会主義同盟」を作った。一方、「社会主義同盟」に正式に入れない女性たちは女性だけの社会主義団体を作った。それが「赤らん会」である。それは「赤いさざなみ」という意味である。久津見房子が命名し、山川菊栄が顧問となった。

ところで、この評伝では「アナボル論争」には触れるのだろうか。捨象されるのだろうか。本の四分の三位のところで言及があった。時代は遡って1917年ロシア革命を機に起こった論争と言うことである。アナとはアナーキズムの略ではなく、アナルコサンディカリスムの略。ボルとはボルシェビキの略である。総同盟(ボル)と非総同盟(アナ)は反目していて論争を繰り広げていたらしい。
総同盟=中央集権(友愛会)
非総同盟=自由連合(大杉)

大杉は大企業のサボタージュ、ストライキを扇動し、野枝とともに尾行がついている日常だった。1923年、大杉はアナキストの国際会議があるというので行方不明を装ってフランスまで行ってフランス語でアジテーションをぶって、フランス当局から強制帰国させられ船旅で帰国した。

そうして、関東大震災が起こる。戒厳令が緊急勅令により宣告されたが、これは朝鮮の独立運動を制圧した警視総監・赤池濃と内務大臣・水野錬太郎の治安行政のコンビが積極的に勅言したらしい。

そこで、震源地横浜で被災した大杉の弟の息子を避難させようと連れ歩いていたところを憲兵に連行され、その日のうちに大杉、野枝、甥の三人は虐殺され井戸に投げ込まれ埋められた。

実行したのは甘粕大尉。発覚したのは皮肉にも尾行していた警察からの警視総監への報告であった。ここには警察と憲兵隊の確執があったという。

戒厳令自体が、標的を朝鮮人と社会主義者に絞っていたということであった。

甘粕大尉の生い立ちにも言及。三島由紀夫やそのシンパだった森田必勝を彷彿とさせる、国家主義者、天皇主義者であったようだ。東条英機に可愛がられていたというから、やはり同じような人が集まる傾向があるのは誰しも同じだと思った。

それに比べると社会主義者は分裂も多いと思う。
伊藤野枝と金子文子はなぜ出会わなかったのだろうか。伊藤野枝は大正12年に緊急勅令により憲兵に拉致され、金子文子はその数日後天皇の爆弾による殺害未遂で逮捕、野枝は虐殺され、文子は獄中死した。

甘粕正彦と大杉栄は同じ小学校に在籍年度は違えど通っていたり、フランスへ渡航したりとすれ違っていたが、そのまますれ違っていれば良いものを、鉢合わせて甘粕は大杉、伊藤野枝の虐殺に及び、その咎で甘粕は実刑を科された。

しかし、甘粕は2年半で仮放免となり、軍部の庇護を受けてフランスへ渡る。帰国したのが世界恐慌の昭和4年、関東軍は国内の不安を取り除くには対外進出が必要だとの認識で「満洲国は日本の生命線だ」という方針を国の承諾を得ることなく強める。このことは、現在「台湾有事は日本有事だ」と言っていることと繋がってはいまいか。

満洲国の正統性を担保するために清朝最後の皇帝溥儀を甘粕の策略により迎え入れた。「主義者殺し」の烙印を押され、裏の謀略を仕掛けてきた甘粕は満洲国において表舞台に立つのであった。

甘粕の中には、善と悪との深い二面性があった。「世の中には絶対の善もないが、絶対の悪もない。世にあるもののすべては、善であると同時に悪である」という甘粕の言葉を読んで、彼は森田必勝とは違う、やはり三島由紀夫に近いと思った。「思うてここに至ると、実に淋しい気がする」といい酒に溺れ、狂気乱心のふるまいに身をまかせていたという。

甘粕は国家を造り正統性を与える皇帝を据え、自らは神のような存在になったが、「それは、甘粕の凄絶な孤独地獄であった」と著者はいう。

そして敗戦、彼は青酸カリで自害した。

甘粕の自害の部屋の黒板には「大ばくち 身ぐるみぬいで すってんてん」と書いてあったそうだ。国家主義者の甘粕をして満州国建設を大ばくちと言わしめたのだ。その「すってんてん」の境地に至った甘粕は、私の憶測に過ぎないが大杉の無政府主義を理解したのではなかったか。

著者はいう。「私には、甘粕正彦が目指した『国家』というものは、色褪せたものにしか見えない。野枝や大杉が目指した『国家』ではない、人びとが平等で助け合おうとする社会こそが、光を放っているような気がしてならないのだ」

野枝と別れた辻潤は、女性と真面目に付き合うことがなくなり、次第に精神をやられ奇行が目立つようになったが、長男の一(まこと)が子どもの頃から世話をしていた。そして、一(まこと)が出征していた間に辻潤は亡くなっていた。死因は餓死だという。

辻まことは中国で死屍累々たる光景を目撃し、体中の血が逆流してきた。「それは大日本帝国に反逆する野枝の血であった。この後、まことは国家や正義といった『観念』には支配されない人間となっていく」。「まことは辻潤から影響を受けた〈否定的な立場〉を突き抜けて、世界を大きく〈肯定〉して立っていた」。

しかし、突然大量の吐血をし胃がんであることが判明、肝硬変も併発し療養が長くなった。12月のある日、まことは自らの命を絶つ。縊死だった。

長女魔子は、幼いころから日本中のアナキストや社会主義者たちのアイドルとして、大杉栄の弟、勇に引き取られ大杉姓を名乗っている。新聞記者である神康生と結婚し良妻賢母を演じていたが、二度目の結婚で父がアナキストであった青木比露志と生涯を共にする。著者は「青木との再婚を通じて、魔子は大杉と野枝の志に近づこうとしたのかもしれない」と言っている。

次女幸子(エマ)は子どもに恵まれなかった大杉の妹、牧野田松枝の養女となり天津にわたり伸び伸びと大らかに育った。大杉や野枝の関係者に招かれ、人々を繋ぐシンボルのような存在となった。

三女笑子は内向的な性格で、糸島高等女学校では首席、総代を務めている。短歌をしたため、三菱下関造船所の労働組合の専従事務員となる。しかし「両親の関係で、世間に顔を出すことはしないと固く決意している」とインタビューを断っている。

四女(伊藤ルイ)「天皇に弓を引いた者の子」と呼ばれ育った。陸軍軍曹である王丸和吉と結婚する。しかし、王丸は次第にギャンブルにのめり込み借金をこさえるようになりルイは必死で働き返していったが、とうとう退職金まで二か月で使い切った王丸と別れて42歳で伊藤ルイとなった。「1976年、ルイは54歳の時に大杉と野枝の死因鑑定書を読んだ。すさまじい暴行の痕で、ルイはその夜一睡もできなかった。これまで両親の記憶がなく、実感がわかなかったルイにとって、この鑑定書は大きな衝撃だった。はじめて、肉親としての実感と悔しさに目覚めた」。
1980年、作家の松下竜一と出会い市民運動に携わるようになる。そんななかで獄中の東アジア反日武装戦線“狼”のリーダー大道寺将司と知り合った松下から話を聞くうちに、ここにも国家に殺される人がいたとの思いで「Tシャツ訴訟」を起こした。1995年にルイは大道寺将司の「Tシャツ訴訟」にて2時間もの証言を行う。それは、自身の生育歴、市民運動へのかかわり、三菱爆破とマスコミ報道についてである。著者は「それは志半ばで命を断ち切られた伊藤野枝の魂がルイの体を通して、現代を撃った言葉であったのではないだろうか」という。
伊藤ルイはその翌年末期がんで他界する。

「2023年、今年は野枝と大杉が虐殺されてからちょうど100年の年である。この節目の年に、いま一度、私たちの国の“未来”を考えてみたいと思う」と著者は結んでいる。

ここからは、私の短い感想。大杉栄も伊藤野枝も言論だけで暴力は一切ふるっていないのに、拉致され虐殺されたことに理不尽を感じる。国家とは何か、国家の暴力装置は国民に向かってくるのだ、それを許すような空気だけは作り出してはいけないと思う。国民ができることは言葉を紡いで、空気を陰湿なものにしないことだけではないのか。

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