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「午後の曳航」 三島由紀夫著を読んで

読み始めたばかりだが、既に漱石の端正な文章とも違う、川端の躍動的な文章とも違う、何かを予感させるような、心が粟立つような、謎めいたスリリングな始まりである。

13歳の主人公は鍵をかけられ幽閉状態にあるところに、覗き穴を発見する。そしてその穴から覗いた隣の部屋の描写が微に入り細に入り現実的すぎて超現実的なのである。

そこには、母親とはいえ女性の部屋を覗くというある種背徳的なときめきを感じる。或いは、鍵をかけられ幽閉状態にあるのは日本だと言いたいのかしら。

そうして母の情事を目撃する。父は死に、母が情事とはいえ他の男に凌辱されるのは、天皇の権威失墜の後、他の男(アメリカ)に手籠めにされる母(日本)という見方がどうしても頭から離れない。それは白井聡氏のアメリカ天皇説とも類似するが、私の見方は穿っていて虚妄に近いのだと思う。

単なるエディプスコンプレックスの話なのかもしれないが、吉田喜重監督の「水で書かれた物語」でも、それを感じた。

日本の近代史そのものがオイディプスの物語的で、しかし、乱暴な父を追いやったのは息子(国民)ではなく他の男であったことと母子交歓はなく、いつまでも母なる日本に国民たる息子は辿り着けないことが違う。

三島由紀夫のエロティシズムは即物的ではなく観念的である。暗がりの中に輝く金色のものに異様な執着を感じる。観念的なエロティシズムでは欲望は行き場を失い果てることがない。それは、頭の芯が覚醒し恰も欲望の嵐に身を委ねることができないかのようだ。

二等航海士の竜二は、三島の分身のような気がする。小説中の「彼が光栄を獲るためには、世界のひっくりかえることが必要だった」という文章は、否が応でも楯の会の自衛隊突入の事件を想起させる。

「船室のカレンダーの数字を毎日毎日鉛筆の☓で消してゆく船乗りの習性に従って、彼は自分の希望や夢をひとつひとつ点検し、日毎に一つずつ抹消してゆくようになった」。切ない。それは三島でいえばノーベル文学賞のようなものなのだろうか。

「俺には何か、特別の運命がそなわっている筈だ。きらきらした、別誂えの、そこらの並の男には決して許されないような運命が」。

「涙は彼の制御しがたい場所、又、この年になっても彼が放置したままにしている遠い暗い柔弱な部分から、直に流れ出てくるのだった。」三島がこの柔弱な部分を自分に対して許せたら、三島の人生は変わっていたかも知れないと思う。東大法学部総代という最高学府の頂点を極めたプライドと自身の中に巣食う弱さへの自覚が、三島をアンバランスな方向へと導いたという解釈は穿ちすぎだろうか。

まだ、1割位しか読んでいず、短絡的の謗りを免れ得ないとは思うが、彼の憧れていたきらきら輝く存在になるためには自身の内側からの力が弱く、上から権威付けされる必要があり、そのためには天皇が必要だったのではないか。三島の天皇擁護にはまだまだ色々な解釈ができるが、ここでは文脈を追って、私はこう考えたのである。

暗闇にうごめく官能的な時は日常の明るい光の中に呑み込まれた。その日常は竜二のそれとは異なり屈折していない。横浜でヨーロッパからの高級輸入品の小売店を営んでいる母房子は官能の嵐に巻き込まれないように日常に戻ってゆく。

その店で扱うブランド品の能書は、この小説が「なんとなく、クリスタル」の始祖だった、田中康夫は三島の正統な系譜に入るのでは?と思えてきた。まさに神は細部に宿る、である。ブランド品が神ならば…

そして、息子の登は「いい家」の「頭の良い子」だけのグループに属している。リーダーは首領と呼ばれる。そして、彼らには特有の美学というか、ダンディズム(カッコよさ)に貫かれている。それは排他的であり、しばしば危険思想に近い。

私はこのグループに三島由紀夫の願望としての『楯の会』の原型を見る。

そうして、母と竜二は順調に愛を育み、母子2人で築いた関係は登から見ると崩れ去った。大人2人から見れば、2人だったのが3人になっただけなのに。

そして、母から「結婚します。明日から竜二さんが新しいパパよ」と言われたその時から登は恐ろしい孤独に陥り、母に復讐するために節穴から光を漏れさせ「見ているぞ」というアピールをするのだった。

母に見つかりしたたかに叩かれた登は三島由紀夫の分身になっていた。「あの暗い抽斗の穴の中で、登は自分の世界のひろがりの、海や砂漠の辺際にいたのだった」「なまぬるい人間たちの町へ還って来て、なまあたたかい涙の芝生に顔を伏せたりすることはできなかった」。

そして、登はあの6人のグループを招集し首領に「塚崎竜二の罪状」というレポートを見せた。そこには首領の意見を聞かなければ何もできない登がいた。にもかかわらず首領は言う。「僕たち6人は天才だ。そして世界はみんなも知っているとおり空っぽだ」。
この言葉を聞いたとき、思わず「幼児的万能感」と思ってしまったが、名づけたときからその本質は逃げ出す。

首領は「塚崎竜二は登にとって記号だった」と言っている。私にとって記号とは乾ききった抽象概念だが、彼ら6人にとって記号とは実体のエッセンス=本質として機能しているらしい。ここにも三島の見方が出ていると思う。

美しい文章に乗せて現れるのは、首領の狂気、死刑執行人を自認する狂気であった。

「僕たちはあの男の生きのいい血を搾り取って、死にかけている宇宙、死にかけている空、死にかけている森、死にかけている大地に輸血してやらなくちゃいけないんだ。今だ!今だ!今だ!」「首領は常緑樹の梢の黒い影に囲まれた、水のような空を見上げて言った」。

三島の文章は多才であり多彩である。しかしどこか空々しいというのは、予断を持って考えすぎか。スガ秀実に言わせると、三島のアプレゲールはニヒリズムだということだが、私はそれに加えて、結社による現代的な権威の転覆に対するオブセッションがあったように思える。そして又、彼には「男らしさ」へのオブセッションが巷間指摘されているようにあったのだった。

そして彼はこの二つのオブセッションによってクーデター未遂を企てたのである。
そしてこの小説の影響かは、分からないが酒鬼薔薇聖斗の類似した事件があった。(彼は単独犯であったが)

解説者は、少年たちは加害者ではなく、少年たちの夢と純潔を大人たちに踏み躙られている被害者だと言うのである。
例え、そうだとしても、狡猾に純潔を装った美しい笑顔の企みに罪はないだろうか。

日常はそれほど忌み嫌われなければならないのだろうか。ここには三島由紀夫の人生観が現れている。凡人を忌み嫌い、命を惜しむ人間を下劣だと思い、エリート主義を貫いて生きようして挫折した三島の楯の会の、軍隊の模倣としか言いようがない制服にポストモダン的空疎と軽さをみてしまう。殺人すらもどこか芝居がかって見えてしまう不幸を背負い三島は更に芝居がかった切腹によって死ななければならなかった。

茨木のり子はその詩集のなかで「時代のせいにするな」と言っているが、三島はどうしようもなく時代と折り合えなかった。その意味では悲劇の人であったと思う。

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