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映画「折り梅」 松井久子監督  2002年制作を鑑賞して

70歳を超えても1人暮らしで人の世話をするのが好きだった政子(吉行和子)は、心配した三男夫婦に引き取られて暮らすようになる。家を取り仕切っていた巴(原田美枝子)は上げ膳据え膳で世話をするが、政子は日中何もすることがない所在なさからアルツハイマーを発症してしまう。そして、巴に嫌がらせをしたり、自分の物を盗んだと嫌疑をかけたりするようになる。いろいろな事件を経て、政子が巴に嫌がらせをするのは心を許しているからだと分かってくる。政子を一番庇ったのは反抗していた中学生の娘だったり、巴が耐えられず家出したときに慰めてくれたのはゲームセンターで出会った家出少女だったりするのも、人間の行動は一面的に見ることはできない、心の奥底の寂しさや暖かさに触れた思いがした。

グループホームや、デイケアを試してみて、お寺がやっているデイケアが一番政子には合っていたようでそこで自己紹介のとき政子は巴に対する感謝を訥々と語る。そこで、政子と巴は涙を流すが、ハンカチが巴が持ってきたハンカチしかなくて、巴が政子にハンカチを投げやると、政子は涙を拭いてまた巴にハンカチを投げ返す、そういう動作を繰り返すことによって、この二人は何の気兼ねもなしに心の底からお互いを思いやっているということが表現されていたと思う。この告白の中で痴呆の当事者は、世話をかけていることに申し訳ないと思う気持ちと、いろいろと忘れていく不安と人間関係をうまく結べないという焦りが一挙に押し寄せ、破壊的な衝動になるのだということがわかる。

そのデイケアで絵を描いていて政子は才能を見出され、美術展の入選を果たすまでになる。そこで言われた「痴呆になったら何もできなくなるなんて大間違い」という言葉がこの映画で一番言いたかったことかな、と思う。「折り梅」という題名は、政子の母が生け花をしていたときに、梅は折っても土に差せば根づくし、折って水に活けても花が咲くと言った「ネヴァーギヴアップ」の意味が込められ、政子の生活の再生を象徴しているのだ。また、家族の再生の意味も持ち、政子を家族が受け入れることにより、家族は互いに愛情深くなり、円満になった。

原作は小菅とも子氏の「忘れても、しあわせ」、映画はアマゾンプライムビデオで視聴可能です。松井監督の作品は強い人間肯定の理念に貫かれているので、観た後は雑念が払いのけられ、生きる勇気に満ちた気持ちになれる。

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