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大学生の時、心が落っこちて、落っこちて、どうしようもなかった時期がある。

自分という存在が、頼りなく朧げにしか感じられず、生きている実感と喜びが途端にはるか遠くへいってしまった。

きっかけは、大学生活に、楽しみや好きなことや好きな友達を見つけることができなかったことだった。

一時は、起きている時より、眠っている間の夢の中の自分の方に、より確かな存在を感じていたこともある。夢の中の方が、まだ楽しかったのだ。たくさん眠っているのにも関わらず、いつも眠かったし、眠るつもりがないのに気づいたら眠ってしまっていることがしょっちゅうあった。「夢の中で眠りまた夢をみている」という、『インセプション』みたいなことが本当に何度かあって、起きたと思ったらまだ夢の中で、2回目覚めてやっと現実だった時は、かなり混乱した。

とにかくあの時期は、”今”を感じる心がしぼんで、現実の実感がぼんやりしてしまっていた。

そんな感覚は初めてだったし、自分に何が起きているのかもわからず、心は鬱々としていて、「自分がわからない」ということだけはわかったけれど、どうしたらいいのかわからず、本当に困った。

ただただ自分の存在が心許なく、消えてしまいそうで怖かったし、ズブズブと底無し沼にハマっていくように心が沈んでいくから、一体どこまで落っこちてしまうのだろう、と不安で仕方なかった。

だけどある日、深く沈んだその先で、底にコツンと当たったような感触を得た時があった。

なんとなく「私はこれ以上落っこちられない」と感じた。

その”底”を感じたことが、かすかな安心感をもたらしてくれて、しばらく真っ暗闇だった世界の中にロウソクの明かりがポッと灯ったようで、私にとって一つの明るい兆しとなったのは確かだ。


その時期、私は時々、近所の川原へ出かけた。

沈んだ気持ちを引きずりながら、当時住んでいた家の近くの多摩川の土手に向かう。住宅街を抜けて、それまでは小さな面積しか見えなかった空が、どどーんと目の前に広がる場所に出ると、束の間心が晴れやかになった。

特に夕方、できるだけ長く夕日が見える場所に座って、空の色が変わっていくのを眺めているとまた心が落ち着いた。あの時は、自分の心をどうにかしたくて、広い空にすがるような気持ちで、川原へ向かっていた。

季節は秋だった。ある日の夕方、いつものように、重い心を抱えたまま土手に座ってぼーっと空を眺めていた。赤く変わりはじめたふんわりとした空の色、あたたかな存在感の雲、おもちゃみたいな飛行機、風が草を撫でる音、風が私の髪や頬を触れた時の感触、そういうものに満たされながら、空をぼんやり眺めていたら、丸ごと空に包まれているような感覚になった。棘のついた鉛みたいな気持ちも、どんどん空に溶け込んでいって、スーッと心が空っぽになり、目の前の空と自分の境目が無くなってしまったようだった。

そしてなぜかわからないけれど、「空も私も、同じものでできているんだ」と、はっきりと思った。

その瞬間、私は、深い深い心地良さと安心の中にいた。


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夕方の空を見ると、今でもあの時のことを思い出す。

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