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哲人2

アテネの市民は、ソフィストはじめ皆、徳の本質を知らず、また自分の無知も、自覚していなかった。一方ソクラテスは、アテネ市民が自らの理想像を、大きく掲げないのは、恥であるとした。そこで先ずそれらの、無知を自覚さしめ、その後アテネ市民のアテネ市民として徳を求めさせようとした。それこそが自らの使命と信じた。アポロン神殿に掲げられた「汝自身を知れ」という言葉の真意を彼は総理解していた。ソクラテスの対話・問答は、人間として自らの無知を自覚せしめ、ただしきものを求める初めとし、さらに徳についての知恵を生み出していくように、人々を導いていった、此れにより、彼は人間の教師とされた。
人間は皆正しい知恵を求める能力(理性)を持っているが、実際にどれが正しいのか見極めるのは難しい。そのための、知恵ですら、求めても難しい。ことの真理はこのように、極めて求めても、むずかしいのである。これを理性的に問答して、互いの刺激で、正しい道も得られるだろう。
その意味で、各個人の自発性を失わず、それを助けて、正しい知恵を得られるはずである。ソクラテスの母親は助産婦であったので、この対話・問答を、助産術と呼んだ。

正しい知恵を得るためには、時間・場所・その人の気分、によるのではなく、理性的であることが条件となる。
「私は、よく考えてみて、最善と思われる、理性的な事に従うのである」と述べ、誰人も認めざるを得ない、基本的理性の法則として、4つの法則を述べている。それらに照らした後具体性のある、正しいあり方を導き出すと、説いた。

1専門家の意見を重く用いる
2更に良く生きる方向
3良く生きる・美しく生きる・正しく生きる
4いかなる場合でも、不正なことをしては行けない

ソクラテスは、人々との議論を行って、正義や勇気、法と雄弁などの正しい徳について語った。その結果、正義とは、個人的なものではなくポリスの法を守ることであり、ローカルルールで判断するものではない、また勇気とは死の恐怖を持たないのではなく、ポリスの中の自分の状況を維持するためには、死を恐れないことであると断じた。また、雄弁について、ソフィストのように、言葉巧みに、悪ですら善とするのではなく、真実を語ることこそが真の雄弁であると、結論づけた
こうして彼は、人々の徳とはポリス内での、市民としての、尊厳と立場の優秀さであるとした。
彼は、正しさとは、「知」を持ってするものであり、知らないことを、学んだ時、正しき行いが、できるのだとして、「知・徳」を挙げて、知を持ってなすことが、徳であると結論づけた。
知を持って徳をなす、幸福な人生と、不誠実な不幸を知り得た。

市民は知恵の上で、徳をなすことが、ソクラテスが得た、普遍的真理であった。
彼にとって、思考し、議論して得た真理は単なる知識ではなく、例えその矛先が自らに向いても、実践的真理であった。彼も、自らの周囲の者を考えないわけではなかったが、それらを超えて、理性に生きることは、厳しく、狭い道のりである事を自覚しつつも、理性により、得られるだろう結論が、他への考慮を超えて、最上の結論だとして、実践していく、彼の結論はここにあった。
人々に、無知の自覚をもたせ、市民としての徳を広めるため、市民と対話・議論して、目覚めさせていったのだが、公衆の面前で、無知を指摘された、ソフィストや、権力者は、彼を憎み、訴えられ、裁判にかけられた。
彼は、裁判につき、事実の明示と、その後、厳正な法律に基づき、裁かれねばならない、そのために、裁判官の公平と裁判による、事実認定また、それに科する法の適用が正しくなければならない、また、裁判に関わったものが、真実を述べなければならない、と常日頃自覚していたため、彼の態度処し方は、被告と言うより、仕方の教師的であった。

「私がこの日までにしてきたことは、ポリスや市民にとって必要な正しいことであり、死刑、追放、公民権剥奪などの迫害を受けてもやめるわけにはいかない。わたくしは、公人としても私人としても、正しいことは何より重視して態度を変えない」とかれはいっている。しかし、」瞭然たる彼の態度は傲慢と思われ、裁判の結果、若者を惑わすとして、死刑と宣告された。
弟子は牢獄を訪ね逃亡を勧めたが、彼は脱獄することが正しいかどうかを考え、正しさによるとして、理性の4原則に照らして、たいわをすすめた。
最後に対話につまった、弟子に自分の考えを、とき聞かせた。
「この判決は不正である、ではなぜそれにも関わらず、この判決に従って死ぬのであるか。“それは国法を破る不正を犯さないためばかりでなく、不正な判決を下した正義の自覚のない市民たちに、彼らの不正を自覚させ、ポリスを本来の正しい姿に戻そうとするためである。”このことこそは、ポリスにおける自分の使命であり、この使命達成のためには、日頃説いてきたように、死など恐れてはならないのである。」
彼は死を得た、アテネがスパルタに破れて5年目、輝かしいアテネが、崩壊に向かいゆくときであった。

ソクラテスの愛弟子の、プラトンは、ソクラテスが、死刑にされたとき、多感な、30歳にもなってない時期で、驚愕の中にいた。
彼は師ソクラテスのなそうとし、いおうとしたことを、いくつかの「問答集」を作り上げた、知る限り、最も正義の人だったソクラテスを殺すほどに、堕落してしまった、アテネポリスを、立て直すため、“知恵を育み、魂を完成せよ”と、言ったソクラテスのなそうとし、教えを発展させた、アカデメイアという学園を、アテネ郊外に設け、哲学の進歩と、教育をおこなった。プラトンの考えは、観念論また、理想主義とされ、現代社会にまで影響を与えている。

知恵を愛することは、プラトンにとっても哲学的な立場から、物事の本質を求めることであった。では本質的なこととは何であろう。プラトンは知恵を求めることは、感情や理性の働きであって、感覚では物事の本質を得られるものではない。例えれば、三角形を描く場合(当時)完全な三角形は描けない、しかし、不完全な三角形の重ね合わせによって、完全な三角形を本質的に見ることができる。すなわち内角の和が二直角の、完全な三角形は感覚や訓練では(当時)捉えられないが、理性的な目では実感できる。実は我々は不完全な三角形を見る前から、理知によって、完全な三角形を知っていなくてはならない。感覚的なものを超えて、理性的なもので物事の本質を捉えることを、かれはイデアとした。


私なりにやらせていただいてます、有り難い。