終わらない上京

大きな東北の震災の3日後、ホワイトデー。
その日に、私は福岡から東京に上ってきた。
最初に住んだのは狛江のアパートだった。
思えばもっと東京にあこがれをもって下調べをしたらよかったものを、とりあえず行けばどうにかなるだろうと思った私が最初に選んだ街。
父と二人で選んだそこは、不動産屋から言われるがまま、本当に何も考えずに二つ返事で選んだことを覚えている。

今はもういない母が、最寄りの新幹線のホームまで送ってくれた。
飛行機ではなく、陸路を選んだのは、地面に近いところに足をつけて東京に向かいたかったから。
線路の上にペタペタと足跡を残す気持ちがあった。

そんな足跡、すぐにほかの人たちにかき消されるのに。
多分、私は寂しかったのだと思う。
そして、私の未熟さであまりうまくいかなかった人間関係について、執着があったのだと思う。
ちゃんと「また会いたいな」って気持ちが地面を通じて繋がっていますようにという祈りを込めて、故郷をあとにしたのかなあと、多少美化した解釈をすることをご容赦いただきたい。

荷物は、多くは郵送してもらったから、友達から借りたヤマハのアコースティックギターだけだった。
まだ荷物置き場が無料でそこに置いた気がする。
曇り空だったけれど、父が富士山の見える席を取ってくれた。
そういう、伝わるかなあという父のやさしさがうれしかった。

東京は、地震の影響で、恐らく、大多数の様子が普通ではなかった。
だから、大きな感慨はなかった。
「着いたなあ」
それくらいの感覚だった。

電車が節電の関係で、経堂までしか動いていなかった。
タクシーに乗って、不動産屋で鍵をもらった。
契約の時はえらく丁寧だったけれど、鍵を渡すときはえらくぶっきらぼうで、静かに驚いた。
セブンイレブンで夜ご飯を買った。
メインは覚えてないのだけれど、頼んだからあげ棒が入れ忘れられていたことはなぜか覚えている。

狛江のはじめて住んだ部屋は、ロフト付きのよくある学生が住む1K。
多分、16時くらいについて、17時くらいに母からの荷物とテレビが届いた。
そのどちらも中途半端に封を開け、節電を心掛けながら、携帯でTwitterやmixiを眺めて眠りについた。

今になって思うけれど、多分、私はあまり東京に興味がなかった。

東京には偶像崇拝のような祈りを込めていたように思う。

「きっと、東京に行けば何かが劇的に変わる」

そんなことをこの場所に押し付けていた。

私は自分が目立つことや得をすることしか考えていなかったし、搾取されることが何よりも怖かった。
搾取する側にならなければならないような、損をしないでいられるような生き方を模索していた。
今考えると、搾取される方が楽でたまらないのになあと思う。

だから、私の上京物語には、あまりキラキラがない。
灰色の、至って事実だけを投影した物語。

そこからのお話は、きっと全てを正確に人に一括で伝えることはない。
ないというよりかはできない。
バツの悪い思い出もあるし、私の至らなさで他人様の記憶に傷をつけてしまったこともある。
私は一生贖罪の濃い影を背負って歩かなければならないと思う。

狛江に2年住んだのち、西荻窪に10年近く住んで、代田橋に1年住んで、今は東京の端の方に住んでいる。
リセット癖と逃げ癖がある割には、東京は長く住めている。
もう逃げるところがないだけなのかもしれない。

そう考えると、私の上京物語はこの先もずっと続くのかもしれない。
より近くより近く。居場所を探して。
東京の真ん中と私の心の真ん中が重なった時が、本当の上京なのかなあと、しぶとく放蕩したい10代の私の臭いが、鼻の奥で訴えかけている。

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