人間視座のゼロイチ論

最近、怪我をしました。
肩折れました。
きっと、治ります。

最近、同じ年頃の女の子が複数人いるコミュニティに属して、私の心は健全です。

目標に向けた事実だけを言ってくれる人たちに対しては、顔色を伺う不健康もありません。

私は、何に怯えていたのでしょうか。

最近、10年ぶりに、
楽器屋でバイトしていた時の先輩に会いました。

信頼を投げかけて派生する開かれたコミュニケーションが、私はいいと思うという話をしました。

音楽も文学も学問も、
本来ゼロイチができる人というのは、
そういった節があるのではないでしょうか。

昨今、公私共に、
本やネットとの二者間のコミュニケーションに、私たちは依存してはいないでしょうか。

知識という情報は、
私たちを攻撃してくることはありません。
大変に楽なのです。
そして、傷つけ合わない、本質を少しずつずらしながら話し合うコミュニティに属するのも、自信がない人ほど、楽にプライドを確かめられるため、陥りやすい麻薬です。

イチニはできるかもしれませんが、
新しいは生まれにくい環境ですね。

私も、そういった時期がありました。
そして、誰しも必要なのだと思います。

でも、私はその世界は、豊かだとは思えません。

人間が生み出す情報というのは、多様性に満ち溢れていると考えます。
表情、言葉遣い、声色、歩き方、体型…
たくさんの、個性を分別するキーワードがあります。

それらは、時に、私たちを攻撃してくるでしょう。理不尽に感じることも多分ある。

だって、私たちは別の個体同士なのだから。

傷つくことを承知で、
たくさんの人数で多様な世界を見ていく方が、多様性な人間への解釈が広がり、豊かだと言えるのではないでしょうか。

これは、私のゼロイチ論です。

あ、ここからは愚痴です。かっとばしてくだされ。

最近、とくと人が嫌になる出来事がありました。
冒頭、事実以外の発言判断をする仕事関連以外の人とは、まったく会いたくない。

さる人たちには、私の気分がコロコロ変わっているように、発言が変わっているように見えているかもしれないが、こちらはそちらが「自分が元気にできたメンヘラ」という実績が欲しいことを察して無理をしているだけなのです。

真に、悩みつらみや食べられない不調を、短期間で解決できるわけがない。

ズカズカと好き勝手発破をかけたり意見をのべてきたりして、言ってはいけない一線を超えて正当化してくるような人たちの手には特に。

考えるだけで吐き気がします。

その人たちが、あらかた、私の心をぶっ壊して「メンヘラ意味わかんない」などと言って去った後、こちらはしばらく「頭がおかしいのか」とパニックに悩まされますが、正常清浄な人たちと話が通じ合うことに安心したりします。

人外な倫理を外れたようなことをする人たちを、多様性とは認めても、人間として許容しては、自分が壊れることをようやく知りました。

人となりをカテゴライズする傾向はあれど、
知識という鉄のカゴの中に閉じ込めるようなことをしてはいけないことを前提に、
自身の身の丈が頭打ちにならないように反面教師の醜い亡霊が、私の過去をよぎります。

それらからは、大変に、かわいそうな、腐敗臭のする人間味を感じます。

本当に自分を救うには、
これができない限りは、
とても難しいことなんだけどね。


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