見出し画像

100か0思考に基づく自己否定からの洗脳プロセス

 ハイデガーによる論の進め方に、ソクラテスと共通する部分があるように感じられたので、プラトン「ソクラテスの弁明」(プラトン著『ソクラテスの弁明・クリトン』三嶋輝夫・田中享英訳、1998年、9~102ページ)についても分析してみることにしました。

わたしたちは「存在」がどういう意味のものか知っている~ハイデガー『存在と時間』序説第一章の分析|カピ哲!

・・・との関連で。

以下の文章における引用部分は、プラトン著「ソクラテスの弁明」からのものです。

***********

われわれのうちのいずれも美にして善なることについては何一つ知らないようなのですが、しかし、かれは知らないくせに何か知っていると思っているのに対して、私のほうは、実際、知らないとおりそのままに、知っていると思ってもいないからです。

(プラトン、23ページ)

・・・ありもしない「美そのもの」「善そのもの」について知っているとか知らないとかいう議論になってしまっているのである。私たちはどういう場合に「美しい」とか「善行だ」とか判断できるかある程度”知っている”。特定の事象に出会い、それが「美しい」とか「美しくない」とか「善行だ」とか「善行ではない」とか判断くらいできる。
 もちろん時には判断がつかず迷ってしまうこともあるだろうし、私の知らない「美しいもの」や「善」(と思えるような事象)がひょっとしてあるかもしれない。しかし”何一つ知らない”わけではない。
 より”正しい”議論であるならば、あなたの知っている「美しいもの」「善いもの」の他にも「美しいもの」「善いもの」はありうる、あるいはあなたはある特定の事象に対し「美しい」「善い」と感じているとしても、私にはそうは思えない・・・そういったより具体的な話になるはずなのだ。
 「美」や「善」というものは、当然一つの”存在物”ではなく、ある一連の事象に対して人々がいかに感じたのか(感情・情動)といった、一連の出来事に対する言葉であって、「美そのもの」「善そのもの」が一つの実体(あるいは事象)として現れてくるものではないのだ。
 ソクラテスの議論のやり方は、ありもしない「美そのもの」「善そのもの」について”何一つ知らない”と決めつけ、人々の具体的・個別的見解を全否定する、一種の”洗脳過程”のようにも思えるのである(仮にソクラテスが権力者であればまさにそうなる)。

最も評判の高い人々がいちばん知恵に欠けているのも同然の状態にあるのに対して、かれらよりも取るに足らないと見える他の人たちのほうが、思慮深くあることに関してはまさっていると私には思われたのです。

(プラトン、24ページ)

・・・架空のものを「真理」とし、それにそぐわない人を”知恵に欠けている”と決めつけ立場の逆転を試みる手法であるように思えるのだ。
 自らの「美」「善」に関する見解について、それが絶対的なものではないかもしれないという謙虚な姿勢を保つことは重要であると思う。しかし、それは「美」「善」について”何一つ知らない”と決めつけることとは全く違うのである。
 真理に対し謙虚な姿勢を示すということは、知っていることを知らないということではない。私が何を知っていて何を知らないか、実際に何があって何がないのか、素直に表明することではなかろうか。

かれらがその作品を創作するのは知識によるのではなく、ある種の生まれ持った資質によるのであり、ちょうど神託を告げる者や預言者がそうであるように、神憑(かみがか)りの状態で創作することを悟ったのです。実際、かれらもまた多くの立派なことを口にしはするのですが、しかし、その口にすることの何一つとして知ってはいないのです。

(プラトン、25ページ)

・・・たしかに創作そのものは理屈ではない。ただ降りてくるものであるとも言える。しかしそれが”何一つとして知ってはいない”ことにはならない。制作の時の感覚やら気持ちやら、そういったものは当然第三者よりもよく”知っている”。ソクラテスの言うことは、単なる”後付け”の理屈の話でしかないのである。”何一つとして知ってはいない”という決めつけに、ソクラテスの傲慢さが見て取れる。

かれらの知識に関して何の心得もないけれども、かれらの無知に関して無知であるわけでもない状態

(プラトン、27ページ)

・・・という姿勢そのものが真理に対しての謙虚さに欠けているように思えるのだ。

人間の知恵というものはごく僅かの価値を持つにすぎないか、何ら価値のあるものではないということ

(プラトン、27~28ページ)

・・・これもソクラテスの独断、あるいは個人的気持ちであるにすぎない。価値があるとかないとか、それはそれぞれの人の判断でしかない。ソクラテスが言っているからといって他者がそれに従う義理もないのである。

「人間たちよ、ちょうどソクラテスのように、知恵に関しては本当のところは自分は何の価値もない者だということを悟った者、まさにその者こそがおまえたちの中で最も知恵のある者なのだ」

(プラトン、28ページ)

・・・これこそ、徹底した”自己否定”から始まる”洗脳”のプロセスなのではなかろうか。私たちは知っていることは知っている。知らないことは知らない。ただそれだけである。私たちの知らないことがまだたくさんあるという謙虚さは必要だが、知っていることまで否定する必要などどこにもないのである。

 ソクラテスはメレトスに対し、「だれがかれら若者たちをより優れた者とするのか、言ってくれたまえ」(プラトン、33ページ)と漠然とした問いを投げかけ(そんな問いに一言で答えられるだろうか)、それに上手く答えられないメレトスに対し、

きみはきみがこれまで一度として若者たちのことに心を砕いたことがないということを十二分に証明するとともに、きみの無関心、つまりそれに関してぼくを裁きの場に引っ張り出した事柄についてきみが何一つ関心を寄せたことがないということをはっきり示しているのだ。

(プラトン、35ページ)

・・・というふうに一方的に決めつけている。ちょっと答えに窮したからといって一度として心を砕いたことがないとか、何一つ関心を寄せたことがないとか、ひどいいいがかりである。
 もちろん自らの生死がかかっている場面である。とりあえずこの場で相手を論破する必要があったのだろう。つまり、言い合いに勝てるかどうかが問題であって、真理を扱おうとする哲学として真正面から取り組むような議論ではそもそもないのだ。もっとも「法律だ。」(プラトン、33ページ)というよくわからない返答をしたメレトスもどうかと思うが。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?