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「正しさ」「間違い」ともに「自然界」における単なる出来事である

戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析の続きです・・・
前回は「表象」という考え方に対する批判でした)

科学哲学批判|カピ哲!|note


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 戸田山氏の意味に関する誤解は次のような見解につながっている。

人工知能が意味の理解をもっていないのなら、認知科学的に捉えた限りでわれわれも意味の理解をもっていないことになってしまう。おそらく「中国語の部屋」の議論が投げかける最大の問題は、ロボットや人工知能が意味の理解をもちえないという点にあるのではない。自分を統語論的エンジンと考えるなら、われわれだって意味の理解をもちえないことになっちゃうよ、という点にある。

(戸田山、70ページ)

・・・「言葉の意味」の理解とは、究極的には言葉に対応するイメージを想像できたり、実物を指し示したりできることである。もちろんそれを様々な他の言葉で説明することもできる(辞書的な意味のように)。しかし究極的には言葉に対応する事実・事態を指し示す・想像することができるということなのである。
 ロボットや人工知能が現在どこかで、あるいは将来的にクオリア的なものを受け取るようなことがあるかもしれないし、ないかもしれない。そんなこと今は分からないし、それはまた別の話である。いずれにせよ自分(人間)を統語論的エンジンと考えるのは明らかに誤りである。私たちの認識の一部がそういう側面を持っている場面もあるかもしれないが、それはあくまで”一部”あるいは特定の局面においてである。
 私たちが(言葉の)意味を理解しているのは事実であり(もちろん知らない言葉は理解していないのだが)、そこは否定しようのない事実である。もちろん間違えることもあるのだが。
 戸田山氏はさらにずれた問いを導き出す。

そもそもその表象が表象であるとはどういうことか。つまりその表象が意味をもつとはいかなることか。心的表象Xが外界のBではなくAを意味するということの正体はいったいいかなる事実なのか

(戸田山、71ページ)

表象が意味を持つのではない。(言語ではない)心的表象が言葉で表現されたとき、その心的表象がその言葉の意味となるのだ。

 しかしわれわれは、解釈者を前提せずに、表象は自然の中で何かを意味できているのだ、という方針で臨もうとしていたのだった。となると、ものごとが起こるべくして起こるだけの自然界に、正しい/間違い、あるいは一般に正常/異常の区別、といった規範性を描き込まねばならないということだ。

(戸田山、78ページ)

・・・これについても「言葉の意味」として考えるのであれば問題は出てこない。戸田山氏の思考は、よくわからない”理屈”が否定しようのない事実よりも先に来ているような印象を受ける。事実としては別に「解釈者」を持ち出さなくても意味理解はなされているし、間違えることもある。間違えたままであったとしても、それが間違いであると知らない限りはそれがその人にとって「正しい」ものであって、それがもう一度近づいてみたら違ったとか人から言われて気づいたとかして「間違い」と分かったとき、その人にとっての真理が更新されるだけである。そして私たちの神経細胞は正しかったり間違えたりした判断に応じて働いているだけである。
 「正しさ」「間違い」ともに「自然界」における単なる出来事である。それが「起こるべくして起こる」のかどうかは知らないが。
 森の中にいて、急に飛び出してきた小さな動物を見て「イタチだ!」と思ったとする。それはそう思っている限りは「イタチ」なのである。その動物がこちらの存在に気づいてピタッと動かなくなってしまったとする(本当にそういうことがあるのかは別として・・・)。よく見たら「ネズミだった」と分かったとする。すると「イタチ」という認識は間違いで「ネズミ」という認識が「正しい」と認識は更新される。事実はただそれだけである。「正しさ」は「間違い」だと分かった時点で更新される。真理とはそういった”出来事”として現れるものである。そして私たちの神経細胞は正しかったり間違えたりした判断に応じてその時々において働いているだけである。
 こういった意味理解において「本来の機能」(戸田山、80ページ)を考える必要もない。それらの理屈を並べる前に既に意味理解はなされているのだから。そして「本来の機能」というものを考察するプロセスにおいて当然関連する言葉の意味は既に理解されている。
 戸田山氏にしてもミリカンにしてもフォーダーにしても思考の順序がひっくりかえってしまっているのだ。


<関連する記事・レポート>

純粋経験論: 科学理論から哲学を根拠づけるのは循環論法 (keikenron.blogspot.com)
「矛盾とは言葉と経験との関係においてはじめて現れるもの」「経験により脳細胞の働きを根拠づけることはできるが、脳細胞の働きから経験を根拠づけることはできない」

経験とは?経験論とは?
http://miya.aki.gs/miya/miya_report19.pdf
・・・三谷尚澄著 「マクダウエルはセラーズをどう理解したのか? : 「みえるの語り」の選言主義的解釈をめぐる一考察」『人文科学論集. 人間情報学科編』44、信州大学、2010年、1~20ページ
三谷尚澄著「経験論の再生と二つの超越論哲学 -セラーズとマクダウエルによるカント的直観の受容/変奏をめぐって」『哲学論叢(2011)』38、2011年、45~60ページ
の分析です。「知覚の哲学」に関する議論の前提を問うものです。また三谷氏・セラーズの言う「経験論」とは実質的に何なのかについても述べています。

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