現象言語であろうと日常言語であろうと言語の有意味性に関しては同じ
野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』分析、10章「独我論」の分析です。
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ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(野矢茂樹著)|カピ哲!|note
引用部分は説明がないものに関しては、すべて野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(筑摩書房、2006年)からのものです。
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野矢氏の以下の説明から、ウィトゲンシュタイン(野矢氏もか?)の言葉の意味に対する混乱した理解が見て取れる。
・・・実際には像も対象も事実・事態として現われざるをえない、さらには関係さえも事実・事態として現れるしかないのである。
「命題」「名」、双方ともに言語・言葉であることには変わりなく、それらが有意味であるためには対象としての事実・事態が示される必要があることには変わりない。
そして”事実から対象を切り出す”のではない。対象は事実として現れる。”事実から対象を切り出す”と考えるのは、今「そこに犬がいる」とその対象物(=事実)を言語表現した事実がまずあり、その犬のまわりの背景について改めて考慮した上で「私は視界全体から犬という対象を切り出した」と分析するのである。繰り返すが、事後的因果分析なのだ。
もちろん、特定の景色あるいは絵の中からある部分、たとえば犬やら花やらを探すというシチュエーションもありうる。しかし、その場合においても、犬やら花やらは(大げさな言い方ではあるが)突如現れる。一つの事実として対象が現れるのである。
さらに言えば、そこに現れたもの(生き物)を「犬だ」と呼んだ(思った)それこそが事実なのである。
起きたことはすべて事実、命題も名も対象もすべて事実なのである。しかし、そこに現れたのは「犬」という言葉(とその対象物)だけであり、”言語全体”がそこに関与しているかどうかなど、事実は何も語ってはいない。”言語全体”が事実として現れることはないのである。
対象としての事実から全体像は因果的に構築されている。野矢氏(ウィトゲンシュタイン)の論理は、あたかも全体像がまずあってそこから対象が導き出されるかのようである。これは転倒した考え方だと言わざるをえない。
そして、野矢氏が「現象言語」と呼ぼうが「日常言語」と呼ぼうが、言語(言葉)の有意味性はそれに対応する事実(あるいは事態)が現れるかどうかにかかっている。つまり現象言語・日常言語の区分そのものがナンセンスなのである。
”「丸い三角」という観念はまさに思考不可能な空虚な観念でしかない”(野矢、22ページ)という場合、あるいはウィトゲンシュタインが「思考し表象する主体は存在しない」「世界の中のどこに形而上学的な主体が認められうるのか」(『論理哲学論考』116ページ)と言う場合、「丸い三角」という言語表現の(意味としての)対象物が現れない事実、「形而上学的な主体」という言語表現の対象物が現れない事実がそこにあるのだ。つまり「ただ現れるものだけを厳格に禁欲的に受け取る」(野矢、207ページ)という現象主義と根本は同じなのである。ただ現れるものを厳格に受け取るからこそ言語表現の有意味性を根拠づけることができるのである。
現象主義を厳密に考えれば、結局は言葉に対応する対象が実際に現れているのかどうか、つまり言葉の有意味性が保たれているのかどうか、という問題であることに変わりない。
当然、「私の言語」であろうが「あなたの言語」であろうが事情は同じである。言葉は言葉である。言語に対応する何らかの対象(事実・事態)が現れるかどうかが、それが言語の有意味性の根拠であると言える。
なお、
・・・この見解に関しては同意する。(”意味論的関係”という言葉自体がもったいぶっているが)「意味」とは要するに「言葉の意味」のことなのである。つまり言葉が指し示す対象物であり事実・事態なのである。
意志作用はまた別の問題であると言える。言葉とその対象物とが繋がり合った”理由”を後付けで探そうとする場合、そういった視点(しかし「意志」そのものはどこにもないのであるが)が出て来る可能性はある。
しかし「理由」を後付けしようがしまいが、既にその言葉と対象(事実・事態)との繋がりが言葉の意味として成立していることには変わりないのである。
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