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竹田現象学における「本質観取(本質直観)」とは実質的に何のことなのか(その1)

 本稿では、竹田現象学における「本質観取」「本質直観」とは実質的に何を示しているのかを明らかにするものである。その手法に一部には賛同者がいるようであるが、私には恣意的に導かれたものであるようにも思えるのである。
 そもそも「理念」「本質」というものが実際に具体的経験として現れているのか、竹田氏の”経験観”に対しても疑念を抱いている。これらを竹田青嗣著『現象学入門』(NHKブックス、1989年)を分析しながら具体的に説明してみたい。
 その上で、竹田氏自身、さらには西研氏、苫野一徳氏による本質観取の具体例についてその問題点も指摘してみようと思う。

1.出発点は経験であり、経験から汲み上げられたものではない/経験は構成されたものではない

 フッサールは次のように述べている。

哲学を新たに始める者としての私は、真正な学問という想定された目標に向かって一貫して努力するなかで、自分で明証から汲み上げたのではないもの、問題の事象や事態が「そのもの自身」として現前するような「経験」から汲み上げたのではないものについては、いかなる判断も下さず、通用させてはならない、ということだ。

(フッサール、36ページ)

・・・結局のところ、実際に現れる経験以外に思索の手がかり・情報はないのだから、突き詰めれば経験が出発点にならざるをえないのは明白である。
 問題は「経験から汲み上げた」とは何か、ということである。非常に曖昧である。具体的経験は疑いようもないものであるが、そこからの推論は疑いえるものである。
 つまり重要なことは、出発点はあくまで現前するような「経験」なのであって、「経験から汲み上げられた」もの(ここでは推論ということにしておく)を出発点あるいは原理に据えてはならないのである。推論・憶測で良いのならばどうとでも言えてしまう。
 竹田氏は経験に関して次のように説明されているが・・・

わたしたちはまずゲームを行う人間に加えられた感覚刺激から生じる感覚的諸像を要素として取り出せる。しかしそれだけではなく、これをつねに統合してひとつの経験へとまとめ上げる<自我>の「はたらき」を別の要素として取り出せるだろう。

(竹田、83ページ)

・・・経験とは要素から統合されてまとめ上げられるものではない。端的に与えられる所与のものである。それが「まとめ上げられた」ものであると考えるのは、様々な経験を因果的につなぎ合わせた上でのことなのである。それ以前に「因果関係とは何か」が問われる必要がある。
 因果関係とは単に事象Aが起こって事象Bが起こった、そしてそれが繰り返されたという事実以上のものではない(恒常性により因果関係の信憑性が増すのは現代科学も同様である)。事象と事象との関連づけをより細かく、あるいはより広範に広げていくことはできる。しかし事象と事象との間にある「因果そのもの」あるいは「はたらき」というものは終ぞ具体的経験として現れることはないのである。
 つまり、因果関係から経験を説明してはならず、経験から因果関係が説明されねばならない、ということを示しているのである。「はたらき」を原理に据えることも同様の誤謬である。
 また「はたらき」というものが科学的に検証され導き出されたものであるのならばともかく、ここにおける<自我>の「はたらき」というものなどどこにも見出すことができない架空概念でしかない。

机のさまざまな相が<知覚>として連続的に与えられる(コギタチオ)ということがなければ、ひとがひとつの机を見るという経験は生じないことは明らかである。しかし人間の具体的経験は、多様な<知覚>が<私>に連続的に生じ、それを意識的につなぎ合わせて「ひとつの机」という像を得ているわけではなく、むしろ、一挙に、かつ端的に、「ひとつの机を見ている」という端的な経験(コギターツム)として与えられている。

(竹田、89ページ)

上記の竹田氏の説明のように、私たちの経験は”端的”なものである(ならば先ほどの説明は何なのだろうか?)。
 ただここで指摘しておきたいのは、実際の具体的経験としては、私たちはただその光景(や画像・映像など)を見て「机だ」と(言語として)思ったり、その情景を後から想起して「私は机を見ていた」と言語化したりするだけである。
 ”「ひとつの机を見ている」という端的な経験”という表現はややミスリーディングではないだろうか。想起された光景と言語(表現)とを一緒くたにしてあたかも一つの”概念”・”理念”が現れそれが経験されているかのような錯覚をもたらしかねない。
 また、私たちは一枚の写真を見ても「これは机だ」と思えるわけで、別にさまざまな相が<知覚>として連続的に与えられていなくても机だと思える。もちろん様々な相が現れた上で「机だ」と判断することもあろう。しかし” 机のさまざまな相が<知覚>として連続的に与えられる(コギタチオ)ということがなければ、ひとがひとつの机を見るという経験は生じないことは明らか”・・・という考え方は、様々な”端的な”経験がまずあった上で、それらを事後的に因果的に結び付けた上で導かれる見解である。より正確を期すのであれば科学的に検証されるべき事柄であって哲学ができるのは単なる”推論”でしかない(それこそドクサ・憶見である)。
 ”構成された事象経験“(竹田、91ページ)という表現からも竹田氏が経験について少々誤解されている様子がうかがえる。経験は構成されたものではない。経験が構成されていると考えるのは、経験と別の経験とをつなぎ合わせ関連づけた上で導かれる因果的説明なのである。経験を一次的なものとすれば、構成とか「はたらき」とかいうものは二次的なものなのである。

フッサールの言うように<知覚>を「原的な直観」として措定する限り、「ひとつの机」を見ているという現実経験はすでに、最小限のドクサを含んでいるということなる。こうしてフッサールによれば、人間の具体的経験は、「多様な知覚」という素材から意識の「志向的統一」という「はたらき」を通して構成されたものだ、ということになる。

(竹田、90ページ)

・・・ここでも”「ひとつの机」を見ているという現実経験”というふうに、想起された具体的光景(心像)と言語表現とが分離されず、ごっちゃになってしまっている。原的な・端的な経験とは、その心像(想像された光景)と”「ひとつの机」を見ている”と言語表現された事実なのである。これら原的な経験には「正しい」も「間違い」もない。構成されたものでもないし、ドクサなどどこにもない。
 しかし”「ひとつの机」を見ている”という言葉とその光景とが繋がりあったとき、特定の光景を”「ひとつの机」を見ている”と言語で説明したとき、そこに(言語表現の)「正しい」「間違い」の判断が入り込む余地が出てくる。つまりその光景が本当に机を見ている情景なのかどうか、と疑う余地が出てくるのである。それではじめて「最小限のドクサ」云々という話になって来る。つまりドクサ・憶見とは言語表現の「正しさ」に関わってくるのである。
 そして、”なぜ”その光景を「ひとつの机を見ている」光景だと判断できたのか、”どのようにして”判断できたのか、と因果的に問うとき、はじめて「はたらき」やら「構成」やらの問題が生じてくる。
 つまり「はたらき」「構成」とは原的・端的な経験がまずあり、そこから因果的に導きだされるものであって、経験の前提として「はたらき」「構成」を想定するのは明らかな誤謬なのである。

2.<主観>あるいは「純粋自我」の「はたらき」というものは現前する経験ではなく、因果的推論の産物にすぎない


 (私を含め)多くの人たちは、別に主観―客観の一致について悩んだりなどしない。主観-客観問題など気にも留めずに、ある事実認識を「正しい」と思い、時に「間違えた」と気づき新たな真理を信じるようになる。

現象学は、主観-客観の問題を”解決する”ためには、むしろ「独我論の立場を”出発点”とするべきであり、それ以外の立場は原理的に問題を解くことができない」と主張しているからだ。

(竹田、13ページ)

そして、

<主-客>の一致ではなく、なぜ人間は<主観>の中に閉じられているにもかかわらず、世界の存在、現実の事物の存在、他者の存在などを「疑いえないもの」として確信しているのか、と問うべきである。フッサールはそう考えた。

(竹田、43ページ)

そもそも主観-客観の一致問題として考えること自体が的外れなのだという竹田氏の指摘はもっともなものであると思う。ただ、「主観」という言葉を持ち出しているということは、「私」あるいは「自我」「自己」というものは既に前提されているということである。しかし自我というものは「そのもの自身」として現前するような「経験」ではない。「独我論」とは私(だけ)がここにいて知覚し思考しているという認識である。これも一種の憶見であると言えないだろうか?
 疑いようもなくただ現れているのは単なる経験、(とりあえずこのように表現するしかないのであるが)見えているもの、聞こえているもの、感じられているもの、言葉(文字や音声として)でしかない。
 先に述べたように「はたらき」も憶見である。「自我の働き」「純粋自我のはたらき」というものなど具体的経験として現れてなどいないのである。
 竹田氏はたまねぎを例えに挙げ次のように説明されている。

たまねぎのいちばん芯には、たまねぎの「皮」の組織をつぎつぎに作り出していく芽の部分がある。<還元>が世界像というたまねぎの皮をどんどん剝いでゆく作業だとすると、いちおうこの芽が残ると言えるだろう。デカルトはこの芽をコギトと呼んだわけだ。ところがここで注意すべきは、「純粋意識」というのは芽そのもの、つまり実在物としての芽というより、むしろ新しい組織を作り出していく芽の「はたらき」それ自体のことを指しているという点だ。「純粋意識」は、<主観>にとって世界や世界の中の存在の確信を作り出していく「はたらき」のことだから、それ自体が存在(実在)物であるとは言えない。だからそれは、ただ世界の中の事物存在の確信を作り出すとともに、<私>という存在の確信を作り出すだけのものであって、最後の実在物として残るわけではない。

(竹田、82~83ページ)

しかし、実在物として残るのではないということは知覚もされないということである。経験として現前しないもの、想定概念・架空概念なのである。推測された想定概念を原理として認めようとしているのである。

<自我>はさまざまな因果の束だという答え方は、じつは現象学でいう<超越項>にほかならない。ここでは<自我>という極、つまり、<意識>がつねに疑いを発しそのつど<内在>にむけてさまざまな<超越項>を験す能力それ自体が、身体や無意識や社会や他人という<超越項>へと”還元”されていることがわかる。ところが、<自我>=<内在>はさきに見たようにたまねぎの芽ではなくその「はたらき」自体だから、原理的にどこにも<還元>することはできないのである。
たまねぎの芽はその「皮」(組織)なしにはやっていけないということはできても、「皮」がその「はたらき」を作るとは言えないからだ。だから現象学的な<自我>とは無意識、身体、他者へと<還元>されることはできず、むしろあらゆる<超越項>を<還元>する動機それ自体であり、またさまざまな<超越項>の何であるかを確かめ規定する根拠それ自体なのである。

(竹田、100ページ)

そもそも「はたらき」とは(前述したように)ある事象Aと事象Bとが起きるということが経験として知覚された上で、それらの「変化」を因果的に説明するために設けられる仮説概念なのである。「はたらき」というもの自体が因果律という前提のもとにあるということなのである。これも既に述べたが、因果律は経験により説明されるものであって、因果律を前提として経験を説明することは転倒した認識であると言わざるを得ない。

このように考えてみると、わたしたちは現象学的な<自我>という極を、もはやそれをどこにでも”還元”できない極であるという意味で、ひとつの「絶対的体験」と呼ぶことができる。フッサールによれば、「この絶対的体験こそは、経験的体験の意味を成立させる前提にほかならない」(第54節)。

(竹田、100ページ)

「絶対的体験」というよりも体験していないものではなかろうか? 「どこにでも”還元”できない」とは、つまり実際に経験として・対象として現れないということでもある。それを「絶対的体験」と決めつけてしまって良いのだろうか?
 そもそも意識とは何だろうか? ただ現れているのは具体的経験のみであって、それらは意識ではない。意識というものなど経験していない。むしろ経験が現れる状況のことを「意識がある」としているのである。
 意識(あるいは意識の「はたらき」)が先に来てはならない。あくまで経験が先なのである。この順番を取り違えてはならない。

<引用文献>


竹田青嗣著『現象学入門』NHKブックス、1989年
フッサール著『デカルト的省察』浜渦辰二訳、岩波文庫、2001年
デイヴィッド・ヒューム著『人間本性論』木曾好能訳、法政大学出版局、1995年


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