因果関係や数学・論理は「ことがらそのもの」としてどのように現れているのか(唯物論は究極的根拠になりえない)

戸田山和久著『哲学入門』(ちくま新書、2014年)分析は、とりあえず今回でいったん終わりにします。

これまでの内容は以下のマガジンで見ることができます。

科学哲学批判|カピ哲!|note

**************

 最後に戸田山氏が見落とされている重要な論点を挙げて、いった本稿を終わりにしたい。
「ことがらそのもの」を探求する、その前提として

物理的世界は因果の網の目であると同時に、情報の流れとしても捉えることができる。

(戸田山、141ページ)

・・・というふうに戸田山氏は考えておられるようだ。
 戸田山氏は意味、機能、目的などについて論じているわけだが、ならば「因果」とは「ことがらそもの」としていったいどういう状況のことなのだろうか? 1+1=2といった算数、あるいは数学、さらには論理とは「ことがらそもの」としてどのように現れているのか?
 意味・機能・目的といったものについて論じる前にまずは「因果」「因果関係」とは何かということについて論じる必要があるのではないか?

われわれフツー人が普段使っている「機能」の概念には、アイテムの歴史的経緯は入っていそうにない。自然選択説も進化論も知らない人でも機能の概念をちゃんと理解して使っているからだ。

(戸田山、119ページ)

・・・と戸田山氏は説明されているが、「機能」が因果関係を前提としている限り、時間の推移が織り込まれているのだとも言えよう。つまりさらに突き詰めれば「時間」とは「ことがらそのもの」としていかに現れているのか、というところにまで行きつくのである。
 戸田山氏自身が言われる「ことがらそのものを探求する」「〇〇の概念ではなく〇〇そのものを探求する」(戸田山、125ページ)とはいったいどういうことなのか、突き詰めてみると唯物論的哲学というものの土台はかえってゆらいでしまう。
 因果関係が科学の“前提”であるならば、では因果関係を“科学”で説明することは正当化されるのであろうか?
 既に説明したことであるが「(言葉の)意味」というものは科学理論構築、科学的実験・観察の”前提”となっている。科学によって根拠づけられるものではない。もちろん(特に)専門用語などに関しては科学研究によりその定義が変化・厳密化されることもある。しかし言葉の意味とは何かという問題に関しては、言葉が指し示す具体的事象ということについて何ら変わることはない。
 同様に因果関係についても、科学的研究により個別的な因果関係が見直されたり修正されたりすることはよくあることである。しかし因果関係とは何かという問題に関しては”科学以前”の問題である。

※ 因果関係については、拙著
ヒューム『人性論』分析:「関係」について
http://miya.aki.gs/miya/miya_report21.pdf
で詳細に説明しているので、そちらをご覧ください。時間についても説明しています。
・・・因果関係とは事象Aが起こって事象Bが起こるという事実にすぎず、その間をとりもつ「因果関係そのもの」はいくら探しても見つからない。因果関係に関与する事象を細分化して綿密に関連性を検証してみても「因果関係そのもの」は終ぞ見つかることはない。

 また、この世界が「因果の網の目」として完全に説明できるのか保証されているわけでもない。因果関係として理解すべきかどうなのかよくわからない事象も度々生じてこよう。私たちは日常生活の出来事すべてについて科学的客観性をいちいち検証しているわけではないしできようもない。ただ因果的に物事が生じていると思っているだけなのである。
既に説明したが、1+1=2も単なる記号の羅列ではない。例えば1個の石があり、もう1個石を追加すれば2個の石になる。そういった具体的事象と数字という「言葉」との関係なのである。論理はそこから一般化されるものであって、単なる数字の羅列ではない。「ことがらそのもの」を探るとはつまりこういうことなのである。

 もう一つ論点がある。これも既に説明したことではあるが、客観的・科学的認識が成立する前提として個人個人の経験が先にあるということである。
 そこに物体があるという認識の前に、私がそこに何かあるのを見たという経験が先にある。チューリングテストをしている人たちがそこにいることが研究者に見えていて、それゆえにそこに被検者たちがいると確信している。
 つまり「事実」としては知覚経験→存在(の確信)、であり存在物→表象ではないのだ。人がリンゴを見ている様子を研究者が見ている。そして被検者が「リンゴが見える」と言葉で伝えてきたことを聞く。そういった一連の具体的経験を因果的に総合して「被検者にはリンゴが見えている」と結論づける。この過程でリンゴの存在→表象という具体的現象は私たちに知覚されてはいない(あくまで言語で伝え聞いただけである)。観察不可能なのである。私自身にとっては、そこには見えているものしかない。近づいて触ることはできるがこれも知覚経験であることに変わりはない。私自身にとってもリンゴの実在→表象、被検者の存在→表象、さらには表象→リンゴの実在、表象→被検者の存在という具体的事象が現れることはないのである(実在を確信するのではあるが)。私たちには知覚経験(そして言語)しかないのだ。
 つまり、私たちは「具体的事実」「具体的経験の事実」を因果的につなぎ合わせた上で客観的世界観を構築しているのだと言える。言葉の意味とは言葉と知覚経験、そして因果関係は私たちの知覚経験と知覚経験とを関連づけた上で構築されるものである。
 客観性とはそれらの個別的・私的な経験の積み重ね・・・①個人個人の経験の積み重ね②様々な人々の経験の積み重ね、によりもたらされるものなのである。
 科学理論は変化しうるし疑うことができるものである。しかし経験した事実は疑うことができない、どうしようもない「事実」、ただ現れてくる「事実」なのである。意志が自由とか自由ではないとかは関係ない(そもそも「意志そのもの」「意思そのもの」は具体的事象・実在物として現れることはない)。私たちの情動的感覚も知覚経験も言葉も、ただただ現れて来て消え去るだけである。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?