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われわれの精神的作用の究極的原因を解明することは、不可能である ~抽象観念・一般観念の成立に関して

 ウィトゲンシュタインの『探求』との関連もあって、

デイヴィッド・ヒューム『人間本性論 第一巻 知性について』(木曾好能訳、法政大学出版局、1995年)
第一部 観念、その起源、複合、抽象、結合等について
第七節 抽象観念について(29~39ページ)

・・・を読み直してみたのだが、思ったより混乱していなかった。ある意味結論は明確かもしれない。

「抽象観念(abstract ideas)すなわち一般観念(general ideas)」(ヒューム、29ページ)の例として、ヒュームは「人間」や「三角形」「線分」「図形」、さらには「政府」「教会」「交渉」「征服」(このあたりになると複雑観念と単純観念との関係と混同されている?)などを挙げている。
 結局のところ固有名詞以外はヒュームの言う抽象観念・一般観念の範疇に入りうるというか、言葉の意味の考え方としては同じであるように思えるのだ。

 ヒュームは様々な観念(というか、より具体的には様々な対象)が一つの言葉として表現される、そのメカニズム、つまり「心的作用の本性」(ヒューム、7ページ:序論より)を明らかにしようとする。
   しかし、結局のところ、

われわれの精神的作用の究極的原因を解明することは、不可能である

(ヒューム、35ページ)

そして、

経験と類比性にもとづいて精神的作用について納得できる説明を与えることができれば、それで十分なのである。

(ヒューム、35~36ページ)

心の言わば魔術的な能力によって実際に寄せ集められた観念

(ヒューム、37ページ)

私の主たる確信は、通常の説明法では一般観念が不可能となるという、すでに証明した点にある。

(ヒューム、37ページ)

・・・つまり、抽象観念や一般観念が可能となる”精神的作用”というものについて「これだ!」という”究極的答え”を得ることは不可能だ、という”結論”が出てしまっているのだ。
 「心的作用の本性」や「人間本性の諸原理の解明」(ヒューム、7ページ:序論より)を解明しようとしても、結局はいろいろ似たような状況と比較しながらいろいろな推論をするところまでしか私たちはできない、「究極的原因を解明」することはできない、ということなのである。『人間本性論』の序盤で、ヒュームの問いかけの”答え”が出てしまっているのである。

 野矢氏は「直示的定義の不確定性という問題」(野矢茂樹著『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』筑摩書房、2006年、361ページ)に関して、以下のように述べられている。

 「道しるべが正しく機能するのは――それがふつうの状況のもとでその目的を果たすときである」というウィトゲンシュタインの発言は、けっして「実際上問題がなければいいじゃないか」というような平板な主張ではありえない。ここにおいてウィトゲンシュタインは、論理の基礎に、われわれの本能、人間の自然な身体反応の傾向性を見出したのである。

(野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』364~365ページ)

・・・ウィトゲンシュタインは紆余曲折の結果、ヒュームの言う「習慣」に行きついたようにも思える。しかしこれも当然「究極的原因」であるとも言いづらい。完全に納得はできないであろう。(そもそも人間の本能やら身体反応などの研究も、言葉の意味というものを前提として成立するものである)

 結局は、言葉と対象との繋がり合いの究極的な説明できなささに行きつくのである。「原理」を問うたところで究極的な答えは出ない。
 私たちが確実に言えることは、「人間」という言葉に対応する対象物を私たちは指し示すことができている、そこに「石」がある? と聞かれそこにある「石」を(もし実際にあったらだが)見つけることができる、そこに咲いている花を勝手に「綺麗草」と名付けることもできる(他の人がそれを受け入れてくれるかどうかは別にして)・・・言葉とその対象物とが既に繋がり合っている事実、そこなのである。
 それら言葉と(言葉の意味としての)対象となる事物との繋がり合いはむしろ出発点であり、それを基盤として論理や物事の原因(つまり因果関係の構築)が追求され導かれるものなのである。ヒュームもウィトゲンシュタインも、考え方が逆なのである。
 論理的説明や原理的説明が根本にあるのではない(これは哲学的思考という錯誤の一つかも)。それらは論理ではない経験がまずあって、そこから導かれるものなのだ。


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