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「語りえない」ものとは? ~ 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1~3章の分析

「語りえない」ものとは? ~ 野矢茂樹著、ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む、第1~3章の分析

http://miya.aki.gs/miya/miya_report35.pdf

がやっと出来ました! PDFファイルで28ページありますが・・・・・・読んでくださったらうれしいです。今日は本文11章も本ブログに掲載します。なお10章と12章はPDFファイルをご覧ください。


はじめに

 本稿は、野矢茂樹著

ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む(筑摩書房、2006年)

の第1章から第3章まで(最初~74ページ)の分析である。本稿における引用箇所はすべてこの本からのものである。
 野矢氏は、

『論考』の構図は基本的に正しいのである

(野矢、17ページ)

とされているが、私の見解は逆で、根本的なところで考え方の順序が逆になってしまっているのではないかと考える。
 野矢氏(とウィトゲンシュタイン)は、「思考」とは何か明確でないまま「思考の限界」について議論しようとしているのではないか。そのため思考の限界と言語の有意味性の問題が混同されてしまい、論理が錯綜しているように思うのだ。さらに事態、事実、対象、命題、名、像といった用語の位置づけが私たちの実際の具体的経験と齟齬をきたしているため、言葉(論理も言葉である)の有意味性の問題を正確に分析できていないのではなかろうか。
 本稿ではこれらの用語を、私たちの実際の具体的経験に沿った形で捉えなおした上で、「語りえない」ものは「論理」ではなく「言葉と事態・事実との繋がり(対象と名との繋がり)」であることを明らかにしてくものである。
 なお、野矢氏は以下のように述べられているが・・・

では、「語りえないが示されうるもの」とは何なのか。
それは論理と倫理である。

(野矢、27ページ)

本稿では「倫理」については論じていない。

<目次>

1.言語の有意味性の限界はその言語に対応する具体的対象により画定される
2.思考とは何か明確でないまま思考の限界について議論しようとしている
3.想像可能性と実現可能性とを混同しているのではないか
4.像は言葉ではなく事態、そして事態は事実でもある
5.関係という対象は個体・性質を伴う事態・事実でもある
6.「個体や性質や関係といった項を取り出す」「個体や性質や関係をかき集める」とは具体的にどういうことなのか
7.同一性について:根拠や理屈以前に、「同じ」と思った事実・事態が先に現れている
8.内的・外的の問題ではなく、論理を含む言語表現の有意味性の問題
9.論理形式は対象を捉え内的性質を分析することで導かれる/正確な情報伝達の問題と対象を「捉える」こととの混同
10.すべての論理形式を知らなくても対象を捉えることができる
11.抽象概念について
12.「語りえない」ものとは?


11.抽象概念について

 野矢氏は「対象」に関して次のように説明されている。

対象に何を含ませようと、事実の存在論を基本に置くかぎり、存在論的に不健全と非難されるいわれはない。対象は、現実の事実から可能的な事態へと展開するために、いわば便宜的に切り出されてくるものにすぎない。すなわち、対象とは、世界の構成要素であるよりも、思考を展開するための手駒なのである。だとすれば、<愛している>のような見ることも触ることもできない抽象的なものが対象とみなされていたとしても、別にかまわないのではないだろうか。

(野矢、66ページ)

・・・この説明は苦し紛れになされた感があるというか、思考を展開するための手駒だから対象となる、という説明で納得できるようにも思えない。必要だから対象となる、というのでは何の証明にもなっていない。
 そういう話ではないのだ。特定の言葉に対する事態・事実というものが実際に現れうるからこそ対象たりえるのである。野矢氏は言語の位置づけを見誤っているから対象がいったい何の対象なのか見失っているのではなかろうか。対象とは言葉に対応する(言葉の意味としての)事態・事実のことなのである。そして既に(私が)説明したように、個体・性質・関係も事態・事実としてしか現れることはない。
 その上で、私がここで問題としたいのは「愛しているといった関係」(野矢、65ページ)についてである。「赤さのような性質」(野矢、65ページ)あるいは「赤色」というものは具体的事象として(事態・事実として)実際に現れうるものである。関係についても、机の上とか戸棚の右側とかいうものについては実際に事態・事実として見出すことができるものである。
 では「愛している」といった見ることも触ることもできない抽象的なものに関してはどうであろうか? そもそも「太郎は花子を愛している」というのは「命題」たりえるのだろうか?
 「愛している」というのは、関係する人たちの間の気持ちや行為を見て総合的に判断するものである。「愛そのもの」という実体があるわけではないから、それは対象となりえない。しかし関係する人たちにまつわる一連の事実(気持ちやら行為やら)はもちろん対象として成立しうるものである。ただし、自分の気持ちはともかく人の気持ちに関しては間接的に言葉で伝え聞くしかない(それを聞いて自らの気持ちとして理解するのであればそれも対象たりえるが)から不確かさは残る。
 さらに問題となるのは「愛している」という言葉に対する解釈が人それぞれであることだ。ある二人の関係を見て多くの人が「あの二人は愛し合っている」と思ったとしても、別の人が「そんなのものは愛ではない、愛とはもっと厳しいものだ!」と主張することがありえる。明確な定義がない言葉を用いた文章は明確に真偽を決定することができない。そういった意味で「命題」と呼べるのかどうか怪しいと言わざるをえないであろう。
 しかし客観性に乏しいとしても、ある人が二人の様子、行為、コミュニケーションの様子など一連の事実を見て「二人は愛し合っている」と説明するとき、「愛し合っている」という言葉に対応する対象としてそれら一連の事実が現れていることは確かである。
 「愛」以外にも「自由」「芸術」といった言葉に関しても同じことが言える。「自由そのもの」「芸術そのもの」は対象化できないが、関連する一連の出来事(芸術に関しては作品も対象として含まれよう)に対し「自由である」とか「芸術である」と呼ぶことができる(もちろんその定義はあいまいである)。
 さらに言えば「思考」や「自己」も同じ範疇に属している。「思考そのもの」「自己そのもの」は対象化できないが、一連の事象を「思考」「自己」と呼ぶことはできる。しかしどこまでの事象を「思考」と呼ぶのか「自己」と呼ぶのかいろいろな見解があり、いまだに議論が続いている。
 このような状況において「思考の限界」について説明しようとしても、いったい何の限界を見つけようとしているのか分かりようがないのである。

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