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以前のレポートの補足・・・


実質含意・厳密含意のパラドクスは、条件文の論理学的真理値設定が誤っていることの証左である
http://miya.aki.gs/miya/miya_report33.pdf

で、関連性・伴立に関して考察しているのであるが、その際、

池田真治著「哲学演習「論理学入門」補論」(2016 年)
(以下のページからダウンロードできます)
池田 真治 (Shinji Ikeda) - 資料公開 - researchmap

を参考にさせていただいた。
 少し理解が足りなかったかな・・・と思ったところがあって、

P から P ∨ Q を導くことが妥当になるのは、‘∨’ が「真理関数的に」理解されているときのみであるのに対して、P ∨ Q と ¬P から Q を導出するのが(本当の意味で)妥当になるのは ‘∨’ が「内包的」に理解されているときのみだからである。
 すなわち、「または」には二つの意味がある。「真理関数的」な意味で P ∨ Q と主張するとき、P と Q のあいだには何の関係もなくとも真となりうる。それに対し、「内包的」な意味で P ∨ Q と主張するとき、P と Q は互いに関連していなければならない。そこでは、互いに何の関連のないものを選択肢として上げないからである。

(池田、5ページ)

・・・の部分は、結局のところ、私が

論理学の詭弁(命題論理はアプリオリに正しいとは言えない)|カピ哲!

の、「2.命題論理の公理系の詭弁」で説明したこととだいたい同じだったのかな、と今日気づいた・・・

どこまで形式化することが求められるかは、どのような意味において「ならば」が用いられているかによるだろう。すなわち、われわれが必要としている機能をもった論理体系を構築し、それらを道具として、目的に応じて適切に論理を使用していくことが肝要ということだろう。

(池田、6ページ)

・・・結局その時その時で必要とされている論理を用いれば良いということである。言われていることはもっともであるのだが・・・

 ただ、私が最新のレポート、

A→Bが「正しい」とはどういうことなのか ~真理(値)表とは何なのか
http://miya.aki.gs/miya/miya_report40.pdf

・・・で指摘したのだが、A→Bで真理表を作成しても、それらは実のところA→Bの真理値ではなくなっている事実があり、ここに論理学の意味論(もちろん構文論も)における混乱がある。
 A→Bの真理表(と論理学で思われているもの)の3行目は¬A→Bの真理値であるし、4行目は¬A→¬Bの真理値なのである。つまりA→Bの真理値と¬A→¬B(など)の真理値とが混同されている、ということなのである。
 「結論を導いた前提が演繹の過程で実際に使用されなければならない」(池田、5ページ)という関連含意が考慮されたとしても、真理表(真理値表)を用いている限り、この問題は避けられない。そもそも真理表(真理値表)というものが有効なのか、そこも考える必要があるのだ。

 (繰り返しになるが)論理はトートロジーとして正しいのではない。論理学的トートロジーというものがアプリオリに存在するという見解はまさに幻想なのである。

 論理学はとにかくおかしい。違和感を感じながらも、練習問題をいくつも解いていくうちに、その達成感から次第に違和感を忘れ、論理学の世界に没入(?)していく・・・まるで一種の”洗脳”過程のようにさえ思えてくるのである。(あるいは違和感を抱いているにもかかわらず正しいと思い込んでいる?)
 論理学的論理が「アプリオリ」であると思い込み、それは現実のあり方とかかわりなく「正しい」ものであると信じ込むのである。現実のあり方から離れて「正しい」と認められるものがあるはずがないではないか。そもそもどうやってその「正しさ」を確かめるのであろうか?
 論理学を信じ込んでいる哲学者に、哲学における問題の答えが出せるのであろうか?


※補足: 現実でなくても小説や物語という特殊な論理区間における真偽(その特定の論理空間でのみ通用する真偽)というものは確かにある。しかしそれらも具体的イメージや情景として表したり、示したりできて初めてその真偽を確かめられるのである。
  そして、それらの真偽はあくまでその論理空間においてのみ成立し、現実世界において見いだされた論理空間では無効である。(論証の妥当性は論証の形式ではなく内容、そして論理空間にかかわる



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