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POST/PHOTOLOGY #0000/ワリード・ベシュティ《INDUSTRIAL PORTRAITS》×POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹


▷POST/PHOTOLOGY by 超域Podcast 北桂樹



POST/PHOTOLOGYを語るにあたっての前置き

2023年3月、京都芸術大学 芸術専攻 芸術研究科(博士課程)を「POST/PHOTOGRAPHY の2020 年代の展開を論考する Study on the development of post-photography in the 2020s.」という博士論文を書いて卒業し、無事「博士(学術)」の学位を授与された。

修士課程でトーマス・ルフというアーティストの研究をし、作品制作の中で感じていた「写真というメディア」への様々な問いについて考え始めたことが、今回の博士論文まで繋がる研究への道を拓いた。研究を続ければ、続けるほどこの「写真というメディア」に対する興味と同時に多くの問いを持つことになった。博士論文までの5年間を通して、指導教官として、後藤繁雄教授から指導を受け、「POST/PHOTOGRAPHY(ポスト・フォトグラフィ)」として、自身の考えをいったん整理したことで、自分自身の創った理論によって「写真というメディア」をある程度捉えられてきたというのが今時点での自身の状態といえる。

その指導教官から、卒業が決まってすぐに「POST/PHOTOLOGYってはじめたらいいよ」という提案を受けた。つまり「ポスト・写真論(学)」みたいな話だ。それが本テキストをはじめるスタート地点といえる。

本テキストは自身が博士論文にてアップデートした「POST/PHOTOGRAPHY(ポスト・フォトグラフィ)」という概念を念頭に、写真表現をするコンテンポラリーアートのアーティスト、もしくは現時点では何とも「名付けぬ表現」とされている表現についてできるだけ検討する。「ただnoteだけ」として進めるのも、どうなのだろうと思うところもあり、このnoteを書いたのち、自身のテキストを自己参照するようなかたちでPodcastの番組を配信し、メディアミックスをしようかと思っている。noteに執筆後、数日中に収録。後日、本文の最初、もしくは最後にもPodcastの配信リンクを埋め込むような形にしようかと思っている(検討中)。

《INDUSTRIAL PORTRAITS》検討

では、前置きはこのくらいにして#0000として最初に取り上げるのは博士論文でも取り上げたワリード・ベシュティの《INDUSTRIAL PORTRAITS》とする。この作品については、トークメンバーとして話をさせてもらっている「超域Podcast」の#042「過去観た作品BEST3」パート1 北編【超域Podcast】の回でも「第2位」で紹介させてもらっており、思い入れが強い作品と言える。※暇な時にでもこちらも是非!↓

ワリード・ベシュティはロンドン生まれ、現在はロサンゼルスを拠点にし、写真、彫刻、インスタレーション、さらには出版物そのものを表現領域とし、写真産業、芸術産業といった「産業」とその「流通」「生産過程」といったところへとフォーカスを向け、不可視化される中間地点における価値生成(筆者はこれを「間質的なものの価値生成」と呼んでいる)を顕在化させるアーティストである。

《INDUSTRIAL PORTRAITS》は、2020年2月、修士論文の審査が修了し、博士課程進学を決めてすぐのころ、これから世界中がコロナウイルスによって同時多発的にパンデミックに陥ることとなるまさにその寸前に訪れたイタリア、ボローニャの現代写真美術館Fondazione MASTでの展覧会内「UNIFORM INTO THE WORK/ OUT OF THE WORK」内における個展形式の展覧会であった。

WALEAD BESHTY《INDUSTRIAL PORTRAITS》@MAST 筆者撮影

展示はベシュティがキャリアの初期からはじめ、鑑賞した2020年時点で12年間継続している作品。アーティスト自身が身を置く「産業(業界)」を構成する人々のポートレートを中心に、場所や状況、環境といったものの写真とも並置する形で構成された作品群であった。この《INDUSTRIAL PORTRAITS》の写真集も持っているのだが、写真集はVOLUME ONEとして2008年から2012年の間の写真からのもので502点からなるイメージによって構成されている。

このFondazione MASTでの展覧会の作品はそれまでにベシュティが制作した総数1400点以上のものからキュレーターであるUrs Stahelによって選ばれ、選別された各52点の7グループ合計364点の展示であった。(※この7つのグループがなにによってカテゴライズされていたのかは不明)

《INDUSTRIAL PORTRAITS》@MAST 筆者撮影

かつて、ドイツの写真家アウグスト・ザンダーは「20世紀の人々」というシリーズにおいて、ドイツ人たちをその人たちの個性ではなく、属するカテゴリーという背景を浮かび上がらせるために標準化したポートレートを撮影することで作った。ザンダーはそれによって、「20世紀という世界の構造」を示そうとしたのだった。

※《UNIFORM》展内に展示してあったアウグスト・ザンダー作品 @MAST 筆者撮影

ベシュティの本作品《INDUSTRIAL PORTRAITS》もザンダーと同じように彼が身を置く産業の構造を示す。それほど大きくはない14*17程度のサイズに額装された人々とモノや環境のイメージは縦に三段で等間隔に掛けられ、壁一面を覆う。3つのイメージの下にはそれぞれのイメージに写し出されている人々(モノ)が世間から与えられている、もしくは世間に示そうとする「産業内のポジション」つまり「肩書き」と「撮影された場所、日時」が記載されている。同じようなポジションであっても一様にまとめてしまっていないところを見ると、肩書きはベシュティが見たものというよりはやはり本人が自身のポジションとして示しているもののように思える。

《INDUSTRIAL PORTRAITS》@MAST 筆者撮影

各種アーティスト、キュレーター、各種ディレクター、美術館・ギャラリーインストレーター、ギャラリスト、ギャラリーオーナー、コレクター、各種アシスタント等々、人物は全身をベシュティとの関わりの中、そのボジションの業界内のあるべき場所を背景に背負い写し出されているように思えてくる。12年という積み上げた時間とベシュティ自身の産業との関わりの深度は、アーティストであり、作家としての彼とアートを取り巻く産業の構造とシステムを浮かび上がらせる。

この12年の間に産業を構成する人々のポジションにそれほどの大きな変化はないが、それを構成する人々の緩やかな変化から彼のキャリアが徐々に上昇してきていることが読み取れる。コレクターは前半にはそれほど出てこない。また、モノや場所といったもの、運びこまれたFedExの箱に囲まれたギャラリーのスタッフたちやギャラリストの一家、コレクターの娘さんといったように登場するのは必ずしも仕事としての関係だけではない点もまた作品に変化と魅力を与える。

《INDUSTRIAL PORTRAITS》@MAST

このポートレイトの凡庸なイメージの在りようは36枚撮りの35mmフィルムというロールフィルムがもつ産業的なパラメーターに依存しているとFondazione MASTの展示にあたり作られた動画内でワリード・ベシュティは説明をしていた。

ポートレイトはそれぞれが従事する仕事の最中にその仕事を中断した「30秒未満」という短い時間を利用して迅速に撮影されているもので、撮影が終わればすぐに彼らは自分の仕事に戻っていく。この「30秒未満」という時間は被写体の仕事の中の一瞬の切れ目であると同時に《INDUSTRIAL PORTRAITS》におけるワリード・ベシュティと被写体とのコラボレーションによる作品共創の時間となっている。かつてこの撮影に協力したことのあるハンス・ウルリッヒ・オブリスト(Hans Ulrich Obrist, 1968-)によればこの時間は「ロールフィルム2本分」の撮影にかかった時間であったという。この仕事と仕事の合間に作られた共創の短い時間の長さを規定するのは「秒」、「分」といった時間の単位によるものではなく「ロールフィルム2本分」という産業的パラメーターによって指標された時間となる。「ロールフィルム2本分」という時間の単位が《INDUSTRIAL PORTRAITS》に写し出される人物がカメラの前に立つ時間を規定し、それによって撮影者、被撮影者の双方に制約を持たせ、ステージフォトのような特別なセッティングを可能とはさせず、コラボレーションによる制作を撮影らしい撮影ではなく、ワリード・ベシュティとの仕事の最中でのスナップ撮影という彼らとその場所という映し出される表象にも影響を与えることとなっている。

364点の写真の中に日本でワリード・ベシュティの作品を扱うギャラリストや、世界的に著名なキュレーター、ワリード・ベシュティの作品が写り込んでいることが辛うじて鑑賞者である筆者を写真に描写されたイメージへと導くが、他の多くの個人的なスナップ写真における「私」はあくまでもワリード・ベシュティであって、鑑賞者である「私」ではないことにすぐに気づかされる。ワリード・ベシュティとしては自身がFondazione MASTでの展示にあたって作られた動画で述べていたように、ワリード・ベシュティは個人を撮影し続けているだけなのである。そのことは結果として鑑賞者の視線をこの見慣れた「何でもない写真」の中の人物ではなく彼らが構成する産業全体、つまり展示へと向けさせる。これはスナップ写真の特徴であり、スナップ写真という行為を我々皆が共有している経験によるものであることもジェフリー・バッチェンが「スナップ写真 美術史と民族誌的転回」にて述べている。

スナップ写真をスナップ写真たらしめているものはその機能であり、その画像の質ではない。

ジェフリー・バッチェン「スナップ写真 美術史と民族誌的転回」
『写真の理論』、甲斐義明編、月曜社、2017年、p. 171

その意味で、ワリード・ベシュティのポートレイトはアウグスト・ザンダーのポートレイトやそのアウグスト・ザンダーのポートレイトなど新即物主義の写真家たちを20世紀の後半にリバイバルしたベッヒャー夫妻のタイポロジーとも違ったものである。20世紀に生きるドイツ人たちをその人々の個性ではなく、標準化した形でのポートレイトを撮影することで、近代ドイツの社会構造において被写体それぞれが属するカテゴリーを背景として浮かび上がらせたのがアウグスト・ザンダーのポートレイト作品《20世紀の人々》である。それぞれの人の個性ではなく標準化ということに意識が向けられており、その意味でザンダーのポートレイトは20世紀の人々を12色の色鉛筆に色分けすることを目指した作品であったと思う。また、ベッヒャーのタイポロジーは全て同じであるデッサン用の鉛筆セットのそれぞれを精密に観察、比較してその外観から2Bと4Bの違いや、削られ方、長さの違いなどというディテールへと意識を向けさせる作品である。一方でワリード・ベシュティのポートレイトは作品につけられたキャプションの肩書きの違いのようにはそれぞれをクラス分けするようには構成されていない。ワリード・ベシュティのポートレイトはアウグスト・ザンダーと同じく12色の色鉛筆だとしても中に12色あるというその構成だけが示されているものの鑑賞者の意識はその12色を入れているパッケージに向けられる。

アウグスト・ザンダー/ベッヒャー夫妻/ワリード・ベシュティ 比較
※博士課程1年次中間発表資料より

つまりこの場合、ワリード・ベシュティ自身が身を置くアート産業に向けてである。それぞれの色鉛筆はパッケージである産業の構造を構成するひとつの要素として機能しているということであり、写し出された人物も展示全体の構成要素のひとつへと置き換えられる。これによって、この展示それ自体が産業の構造そのものの姿として立ち上がり、産業というもののポートレイトとなるようであった。

ワリード・ベシュティが決定的に「写真家」とは違う点は、スナップ写真の凡庸さを理解し、イメージへの没入を阻害させるためにスナップ写真という手段を選んでいるという点であろうかと思う。スナップ写真のイメージではなく、その機能を利用して、自身の問題意識である「産業全体」のアウトラインを顕在化させるために利用している。つまり「概念」を指し示すために写真というものを使っているという点において、彼の身振りは写真家のそれではなく、コンセプチュアル・アートのアーティストたちのそれであり、彼の作品を現代写真アートたらしめているのはこの点であろうかと思う。

まとめ

  1. イメージではなく、展示によって「産業」全体を顕在化させるという戦略。

  2. 写真という極めて産業的なメディアの特徴を際立たせるために「産業的なパラメータ」を時間として規定し、撮影に持ち込んでいる。

  3. 継続・反復することによる価値生成。

 ↑ワリード・ベシュティの思考の先に見る「これからの写真」
京都芸術大学大学院紀要 1号掲載

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