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俳優アントニオ・マルティネスについての記憶

 専任スタントという職業がある。そう、俳優には違いない。しかし、独自性を表現することはない。なにしろ俺の仕事は、あのアントニオ・マルティネスに成りきることだからだ。

「どうなった?」
 バスローブに靴下という妙な出立ちでヘスは言った。
「全部済んだ。もう好きに過ごせ」
 俺がナイフの血を拭いながら言うと、口髭の端から泡を飛ばすようにして俺を称賛した。
 ヘスのような貧弱野郎が命を狙われるには相応の理由があるのだろう。だが、俺はそんなことに首を突っ込まない。ただの副業だからだ。成功すれば報酬が手に入り、失敗すれば次の仕事が来づらくなる。それだけだ。
 この街で俺はそれなりの知名度を得た。ただし通り名で。
 次々に依頼が舞い込む。デ・モリナの暗殺。ドゥエナスの息子の護衛。裏稼業としての株ばかりあがる。本業のスケジュールは白いままだというのに。

 ドアを閉めるたびに壁の塗料が剥がれる自宅に帰り、飲み残しの赤ワインでカリモーチョをつくる。冷蔵庫を開けたがカラだったので、レモンなしのままグラスをあおった。スマホに通知が届いている。それも三通。
 一通目は所属事務所から。スタントの仕事の依頼だった。本業復帰は実に二ヶ月ぶりだ。俺は最高に気分がよくなり、迷わず次を開いた。二通目はエージェントからの護衛依頼だ。護衛対象はアントニオ・マルティネス。おいおい冗談だろ。俺は笑った。
 だが、カリモーチョの味を楽しめたのはそこまでだ。
 最後の一通は、マフィアからの暗殺依頼だった。これは絶対に断ることができない。対象者は、アントニオ・マルティネス。

「ひさしぶりだな。元気か?」
 相棒が俺の肩をたたく。
「やあ、アントニオ。いつもどおりさ」
「すまないな。テレビシリーズの現場に呼んでやれなくて」
「そりゃ仕方ないさ。ホームドラマにスタントの出番はないよ」
「ところでおまえ、俺に隠しごとはないか?」
「なんだって?」
「おまえ、副業しているだろ」

つづく

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城戸 圭一郎
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