風土、とアフォーダンス

和辻哲郎の風土を読んだ。これはアフォーダンスのことを言っているのだなと思った。

よくある話であるが、人間は道具を使うことで体を拡張しているのだというようなことを聞く。例えば、杖をつくというのは手を延長しているようなもので、杖の先に自分の手の感覚が次第に結合されていく。しかし、そういったことはなぜ可能であるのかと考えると、これがなかなか難しい。

私たちが歩けるのは、足があって、それを随時動かしていけるから、というだけのことではない。この考え方では暗黙のうちにあるあり方で地面が存在することを仮定してしまっている。つまり、環境と呼ばれるようなものも一つの条件として、私たちの中に組み込まれている。これはあえて言えば、環境というのも私たちのうちにあるということなのではないだろうか。

ある風土において寒さを感じれるのは、寒さというものがあって、それを感知する器官を持っているから、というだけのことではない。その環境と私たちが同時にあり、その関係性の中で寒さというものも同時に生まれていると考えるべきである。

こういったことはまた、禅宗の考え方、道元の思想に出てくる空、縁起といった流れにも似ていると思った。あらゆるものはそれ単体で存在することはできない。他のもの全てとの関係性によって、初めてその位置付けが可能になり、そのものとして表れてくるのである。

これはまた、別で書いてもいいと思うが、この禅宗におけるものの認識の仕方の考え方は、「意識はいつ生まれるのか」という本での、意識の発生の仕方の説明とも非常に似ている。単体の刺激に単純に応答するだけでは意識は生まれず、多様な刺激に、複雑に絡み合ったニューロン群が反応することによって初めて意識が生まれるというような説明であった。他の反応の仕方ではないこの仕方をしている、ということにより初めてその応答の意味が分かり、意識として立ち現れてくるのである。

このように全ては繋がっており、道具を使うことなどで変わるのはその中での接続の度合いである。脳というのは現実をシミュレーションするための道具であって、それによって世界の中に元々あるつながりを見出し、より強い強度で生じさせるということが、身体を拡張するということに当たるのだろう。


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