延長と否定の創造力

クリエイティブ、という単語はあまり好きではないけれど、人間にはやはり創造力、と呼ばれるものがあって、新しいなにかを作りだせることは日々を彩るためにも必要なことであるようだ。

定住革命という話があったが、やはり同じ場所にいつも住み、安定した社会があるからこそ、その退屈を紛らわすためには何か刺激が欲しくなるだろう。

そうして出てくる需要に応えて、なにか新しいものを作る方法には、なんとなく二つの源泉があるのではないかと思ったので、それについて書いてみる。

まず一つが大袈裟なこと、極端なことである。
これは例えば最近だとYouTubeで大量のなにかを食べたり、どでかい何かをつくったり、めちゃくちゃ高価ななにかを買ってみたりするようなことである。

こういった創造力は、いわば延長の創造力で、既存のもののどこかのパラメータを、極端に大きくしたり小さくしたりすることで生まれるクリエイティビティだろう。

普段普通に食べているものを極端に長くしたり辛くしたりしたらどうなるか。予算を上げたらなにが買えるのか、といったことである。

こうしたことに必要なプロセスは、
あるものの中のパラメータを見つけ出し、
それを極端に大きくするか小さくするかすることで、
その際に極端な状態をどう実現するかという技術的な手段も既存の範囲のものと変わってくる場合が多い。

そしてもう一つが、嘘、現実の否定、から生まれてくる創造力である。
論理学においても、否定、というのは基本的な作用として、そのもの以外のすべて、を指すものだけれど、これはなかなか僕にとっては不自然に思えることであった。

肯定的な表現というのは、基本的にそのものに関する情報が十分になければなしえない。しかし、否定というのはその点とても楽である。例えば僕でないもの、と言えば、その中にはまだ解明されていない定理も、神も、また無神論も、また宇宙人の思考でさえ、入ってしまう。
つまり、ここで言いたいのは、否定というのはそもそも作用として肯定よりも無限に豊かなのではないか、ということだ。これを創作に利用されている例は確かに多くあるように思われる。天邪鬼な作者というのが多いのも、この作用を利用していることによるのではないか。

僕は人間である(と思う)が、僕は人間でない、といえば、それは宇宙からきたスパイかもしれないし、AIかもしれないし、猿かもしれない。ここからなにか宇宙戦争だの機械や動物による反抗だのといった設定を引き出すことも容易だ。

ここでは創造のヒントになる二つの手法について提案したが、さらには他のものも併せてこういった手法をもっとしっかりと分類し、分析することである創造の創造性がどれぐらいか、ということも分析できるような考えをもちたい。


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