分裂症的自己と他者

ポストモダニズムに位置付けられるフランスの哲学者、ジルドゥルーズの本についての本を読んでいて気になったのが、分裂症的な自己、というキーワードだった。

僕の母親などは「人間ってのは多面体だからね」などとよくいうけれど、ここでいう分裂症的、というのはそれに近いんじゃないか。自分の中には、こんな自分がいたのか、という自分がたくさんいる。そしてその驚いている自分にまた驚いたりして、じゃあこの驚いてる自分ってのはまたほんとに自分なのかしらといった気分になってくる。

つまり、自分というのはとても他者性を帯びている。全然違う他者がパッケージのようにしてたくさん詰め込まれた箱のことを、僕たちは自分と呼んでいるだけなんじゃないだろうか。(ここでいう他者とは人でないものも含んでいる)

「我思う、ゆえに我あり」なんていうけれど、これでは他の人は思っているかわからないから、存在するかわからない、となってしまう。まあもちろん本当にはわからないのは確かだと思うけれど。

それよりも、自分、といったものがまず複数の他者が関連し合うことによってボワッと表れているように見える幻のようなもので、この自分、僕は特に僕の脳みそ近辺に集中した他者性の結果、あるいは他者性の集積そのものだと考えるべきなんじゃないか。このように考えれば、脳神経科学のように解剖していって考えるということとも繋がってくるという風に思う。そういったことから他の人の意識についても、自分というものがあるだろうということができるようになる。

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