新しい家族のカタチ?

セクシャリティや、民族、思想、宗教などにおいて多様性を許容する社会を目指すというような立場と、自分達の所属するコミュニティの中で閉じた心地よい関係をつくろうとするナショナリズム的な立場とで、ほとんど膠着状態にあるように思える。多様な人の権利を平等に認めるのは理想的で、それを達成しようとしないことは考えられないようにも思える。実際いわゆるリベラルな人がそう発言することはよく見かける。つまり、「どうして反対するのかわからない。」と。

実際多様性多様性と無反省に言うのは簡単だと思うが、事はそんなに単純なのだろうか?

まずそもそも、全ての価値観を受け入れるということは原理的に不可能であるということを忘れてはいけない。多様性多様性と言って寛容な立場を気取ってはいても、寛容は不寛容に対しても寛容であり続ける事はできない。つまり、寛容というのも一つのイデオロギーであり、寛容の規定する不寛容に対しては不寛容なのである。

先日メディアで新しい家族の形、ということで多くの人で共同で住み、助け合う、といったコミュニティを考えている人をみた。しかし、そこに入るのは「クリエイター」とやらなのだ。ここにこういったいわゆる「先進的」なコミュニティがなんとなく社会から黙殺される理由がある。

つまり、今も大多数である核家族的、保守的なクリエイターではない人も、このようなコミュニティに入れるのでない限り、これが普及していくことはあり得ないと思うのだ。多様性多様性と言っておきながら、実際には大多数の「クリエイティブでない」人々を拒絶しているのだから。

これは本当は家族と呼ぶべき代物ではなく、ムラ的であり、オンラインサロンと同系列のコミュニティであると思う。テクノロジー的に可能になったのだから、こういったゆるい繋がりをもつ、流動的なコミュニティで、かつてあった空間的制約による地縁的な共同体の代替をするのは、とても自然なことである。

本当に社会を変えたいと言うのだったら、現実的には、今も大多数である核家族的な生活をする人々も、普段からより流動的な生活をする人々も同等に利用できるようなコミュニティをオンラインを活用しつつ実現するべきなんじゃないか。「クリエーター」とか「クリエイティブ」とか言っている時点で社会のメインカルチャーとはなり得ないように感じる。

そうすることで、よりパーソナルな家族的な関係は個人個人の自由に任せた上で、その上により公共的な共同体を置くことができる。より制約的で、贈与的な関係は家族の方に任せ、より流動的で、自由な関係はそれぞれが属すオンラインコミュニティで満たす、といったことができるようになれば十分だ。全てを解体してごっちゃにしてしまうというのは今あるシステムからして無理な相談なのだと思う。


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