ヤマザキマリ 壁とともに生きる

この本はテルマエロマエを書いた漫画家のヤマザキマリが、自身が貧しい芸術家だった時代に読み耽っていた安部公房の作品について、当時の作者と自分の境遇を重ねながら、説明していくものだった。

僕自身も一時期安部公房の作品をいくつか読んでいたことがあって、中学の時の読書感想文を赤い繭で書いた記憶がある。一番最初に読んだ新潮社の「壁」の第三部にある作品である。

自分が今ちょうど就職をしようとして就職活動などをしていることから、壁というものを人間社会へ人を同調させる圧力だという議論には、色々と考えさせるところがある。

ヤマザキマリも、安部公房も、社外に従属せずに芸術で身を立てることを志し、極貧の時代を過ごしていたということだった。これを壁の外の自由を求めるということだと言っている訳である。

一方で学校や会社や国などに所属して縛られるということが壁の中にいることである、ということにもなる。

しかしこの解釈はとりあえずのものでしかなく、かなり表層的なものなのではないかと考える。

「砂の女」では、自由を求めるような都会的な青年が、昆虫採集をしにいった先の村に、そのまま居着くことになってしまう。結局「壁」の中に安住することになっている。

また「壁」では名前をなくし社会への帰属を失ったカルマ氏は、自分の部屋に帰り、結局自分自身が「壁」となってしまう。

この作品で言っていることはおそらく社会から逃れることで壁からも逃れられる、ということではない。

社会から逃れることで壁から逃れたと思っていても、自らが自らを規定しようとする壁から逃れられない。これは実際は壁は社会にあるのではなく、そもそも自分の中にあり、なんなら世界の全ての中にあるもので逃れることなどできないということなのではないかと思う。

あるいはそもそも社会から逃れるといっても、例えば、芸術家が自分の作品で身を立てられるようになったとして、それで社会から逃れられていることになるのだろうか。これは甚だ疑問である。

作品を買うのは資本主義社会の中で得られた給料によるのであり、それはつまり壁の中でつくられるものである。その資本に依存している限りにおいて、芸術家も社会への依存を逃れられているはずがない。

芸術家批判をしたい訳では全くないのだけれども、結局芸術家の作品というのも、資本主義社会の中で生きる人々が気晴らしのために買われていて、それによって芸術家が暮らせていけているということは変えられない。

飯を食わないと生きていけない、家がないと身を守れない、そんな自分の身体、存在による限定から逃れられない限り、自由というものはないのだろう。

しかしその限定から逃れた先になにかがあり得るのだろうか。


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