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井波に愛され、頼られて125年。まちの美容室「みたに」さん

<はじめに>

「なりわいノート」特集第二弾は『井波の100年超企業』!

掲載3社目は、地域に愛される「みたに美容室」さんです。
みたに美容室の創業は明治30年(1897年)。明治~大正~昭和~平成~令和と、時代とともに変化していく美容室の役割と、みたに美容室の継続秘話について4代目三谷千津子さんにお話をお伺いしました。ぜひご一読ください!

みたに美容室とは>

創業1897年(明治30年)。井波のまちの美容室。越中一宮高瀬神社とも連携し、創業以来さまざまなお客様の婚礼を手掛けてきた実績を持つ。
代表の三谷千津子さんは4代目。5代目となる娘さんもスタイリストとして活躍中。二人ともに全国のコンクールで多数の受賞歴がある。

みたに美容室のシャンプー台

家業に誇りを持つきっかけとなった『100周年記念ショー』

「以前は、長く続いていることに対して古くさい店でイヤだな、恥ずかしいな、と思っていました」という4代目 三谷千津子さん。その気持ちに変化が生じたのは『100周年記念のブライダルショー』を開催してからだと言います。

もともと「みたに美容室」の創業年は明確にわかっていませんでしたが「母や祖母の話を聞く限り100年は超えているだろう」と考えた千津子さんは、2016年に100周年記念のショーを開催することを決意しました。当日は高瀬神社を貸し切り、ショーを行う披露宴会場には想像以上の観客がかけつけ超満員!! プロモデル数人、地元有志のモデルにも大勢協力をお願いして、その他、司会やカメラマンもプロフェッショナルを揃えて、本場さながらのモデルショーを実施。結婚式用の白無垢や色打掛、洋装ドレスの白、カラフルと様々な衣装に身を包んだモデルが赤絨毯の上を華麗にランウェイしていきます。ウエディングシーンのみならず、小学校の入学式参加用の着物や、七五三用のお子さんの着物など、日常シーンの衣装も多く披露され、1時間半のあいだ観客は退屈することなく華やかな世界観に没頭したのでした。

すべてのショーが終わったあとスタッフ一同がステージに上がり、拍手喝采のなか千津子さんは涙ながらに感謝の言葉を伝えました。娘さんの千春さんも大号泣。みたに美容室がこれまで培ってきた地域の皆さんはじめ、ウェディング関係者との深い絆の集大成を披露した、まさに創業以来の一大イベントでした。

みたに美容室の表看板

その後日、商工会の方に「あんたんち100年以上過ぎてるよ」と教えてもらい、どうやら商工会の登録に明治30年(1897年)1月1日の日付が記録として残っていたようで、1897年には創業していたことがわかりました。既に看板を掲げたあとの発覚でしたので、店舗の入り口には「since1915」という看板がそのまま残っているのはご愛嬌。

技術を身につけるにはコンクールが一番!

みたに美容室の歴史を遡ると井波の花街文化が見えてきます。初代のいといさんが芸妓さんの髪結いを始めたことが「みたに美容室」の始まりです。2代目のまさをさん(千津子さんのお祖母さま)はお嫁にきてから髪結いを習い、時代とともに日本髪から洋髪への変化、さらには電気パーマはじめ数種類のパーマの変遷をすべてたどり、美容室にとっては一番の激動期を乗り越えてきました。3代目の睦子さん(千津子さんのお母さま)は砺波の美容室から嫁がれて、御年89歳ながら今でもお店に顔を出して着付けのアドバイスをしたり、同級生のお友達がこられた際には仕上げを担当したりと、いまだお元気に活動しています。

そして、4代目の千津子さんですが、実は美容室を継いだのは「他にやりたいこともなかったしなんとな~く」だったそう。大した意欲もなくのんびりと働いている姿を見たお母さまがある日心配をして「私に何かあったらどうするの?!」と言うと「大丈夫、店閉めるから」と軽く返答してしまうくらいのモチベーションでした。それが、まさかのまさかで美容室を継続して、さらに今娘さんが後を継いでくれていることにご本人も大変びっくりしているそうです。

千津子さんが仕事に真剣に取り組むようになったのは40代の頃、コンクールへ出場したことがきっかけでした。
その頃、花嫁メイクや着付に対して「何か違うな」「どうしてこうなってしまうんだろう」という微妙なブレを感じており、自分の技術に納得できなくなった千津子さんはもう一度学び直しが必要だと考えていました。そのタイミングで憧れである福井の先生の勉強会に行こうと友人に誘ってもらい参加。すると受講者は最後にコンコールへの出場が義務づけられていて、「え~っ!」と驚きながらもあれよあれよと先生が全国大会まで引っ張り上げてくれたのでした。

当時のメイクは現代とは異なり、油のファンデーションの上から水化粧を施すというもの。花嫁さんのお顔は真っ白で、口紅は真っ赤。眉の形やぼかしの入れ方、どのように口紅を引き立たせていくか、などコンクールを通して学んでいきました。それらの経験が大きな自信となり、自分が納得できる技術を身につける最善・最短の機会となったのです。

それからも千津子さんは様々なコンクールに挑戦し数々の入賞を果たします。それを追うかのように娘さんもコンクールへ出場し、全国大会で入賞するほど技術を高めています。

第40回 全日本美容技術選手権大会にて(みたに美容室ブログより)

美容師は、花嫁さんのマネージャー

取材中、千津子さんから『床の間の前で取られた結婚写真』をたくさん見せていただきました。これは〇〇さん、これは〇〇さん、と話す千津子さんを見て、筆者は「地域の結婚式のお仕事は全部三谷さんに来るんですか?」と質問。すると「昔はね、結婚式は美容師さんに頼むものだったの。行きつけの美容師さんにお願いするんですよ」と千津子さん。そのとき筆者は時代の変化を痛切に感じました。

今では、結婚式をあげる際は式場に行ってウエディングプランナーさんに相談することが当たり前ですが、千津子さんの時代は、新婦は自宅でお支度をしたのち新郎宅でご仏前参りをして、それから式場へ参るという流れが一般的で、その際の新婦の身の回りのお世話はすべて美容師に一任されていたのです。

そもそも、本来の結婚式には様々なしきたりがあります。
まず、新婦は自宅で身の回りを整え、家の仏様と神様にお参りをしてから仏前参りに相手の家へ向かいます。その際、新婦は家から竹筒にお水を持っていきます。対して新郎側は素焼きの盃(さかずき)に水を入れて待っており、新婦が持参した水を盃に注いで合わせて新婦がそれを飲み、仲人が玄関先でその盃を割る。細かく割れるほど良いとされているため盃は必ず石に向けて投げられます。

花嫁行列には、新婦の両親と仲人、親戚と友達が着いてきます。新郎の家に到着後は仲人が新婦の手を引いて、その後ろに父、母、それから家族という順番で列になり、対して新郎側の親族一同は玄関にずらりと座ってお待ちしているのです。
盃が割れると初めて新婦は家へ向かい入れられ、控えの間で移動の際に来ていた色打掛から白打掛に着替えます。その後、新郎の母と一緒に仏壇にお参りをして、花嫁のれんをくぐり広間へ移動、と。すべての流れを記していると大変な量になってしまうので割愛しますが、要はこれらの最初から最後まで、一日中花嫁についていくのが美容師の役割だったのです。

しきたりが多い結婚式ですが、人生で経験できるのは数えられるほど。そのため、経験を積んだ美容師は準備段階から頼られることも多く、さらに当日は花嫁にアドバイスをしたり、移動に際しては家族を誘導したりとマネージャーさながらに活躍したそうです。

結婚式にはハプニングもつきものでした。例えば新婦がお水を忘れてしまうケース。花嫁が乗った車はバックできないため、美容師含めタクシー運転手も「お水持った?」と何度も確認をします。またバックできないルールを逆手にとって、なんとかバックさせよういじわるをしてくる車などもあり、ルート通り相手の家に迎えるように曲がり角には案内役のおじちゃんを立たせるなどの工夫がありました。笑

結婚式は地域の一大イベントでもあり「今日お嫁さん来るよ!」となると、近所の人みんなが見に来ました。ご仏前参りの最中も家の外からわいわいと声が聞こえるほど。特に花嫁さんは女の子の憧れでもあり、みんなの目を引く存在なので、千津子さんは常に「見られている!」という緊張感を感じていたそうです。

このような式の形が変わっていったのは20年前の2000年頃から。式場がどんどん増えていき、衣装も和装からドレスへとあっという間に変わっていきました。最近では式を挙げない方も少なくありません。
みたに美容室では時代の変化に合わせながら現代もウエディングシーンのサポートを行っており、式を挙げない方のウエディングフォトにも力を入れています。

ウエディングフォト(みたに美容室公式HPより)

「5年やれ」というアドバイスが実を結ぶ、新たな挑戦!

井波の花街文化に誘われて明治時代に始まった「みたに美容室」。いつの時代も社会状況やブームに寄り添いながら、技術を身に着けてお客様の求めるものを提供してきました。

そんな「みたに美容室」が新しい挑戦を始めています。八日町通りの御着付処「月や」です。観光・まち歩き用の着物だけでなく、七五三、成人式、学校行事など祝い事用の着物までさまざまなシーンに合わせた提案をして、貸衣装から着付けまでを行っています。

月やの看板

「月や」を始めたきっかけは、千津子さんの勢いと言っても過言ではないでしょう。現在お店を構える国指定の登録有形文化財の「弥右衛門屋」が空いたと聞くや「私が借りる!!」と手を挙げ、それから何をしようかと考えたそうです。たまたま知り合いの衣装やさんが新湊でまち歩き用の着物レンタルを始めたという話を聞いて、自身も趣味の「アンティーク着物(昭和初期までの着物)」を貸し出すお店を始めましたが、1~2年の間は全くお客さんが増えず赤字続きで「どうしようか」という日々が続きました。しかし、「まず5年やれ」という大先輩のアドバイスが心に強く残り、なんとか粘ること現在5年目でようやく芽が出始めています。最近では、まち歩きの着物レンタルや高岡の御車山祭での展示、七五三の貸衣装の予約が次々と入るなど順調に仕事が増えてきました。

業界誌に掲載された七五三の貸衣装①
業界誌に掲載された七五三の貸衣装②

着物を着る人が減った現在。そのさらにニッチな「アンティーク着物」というジャンルですが、大正ロマン・昭和レトロが再ブームとなりつつある現代において、目を引くコンテンツなのだと筆者も感じました。

着物が好きだと目を輝かせる千津子さん、イキイキと働かれる娘さんの千春さんを見ていると、みたに美容室の未来は明るいなと感じずにはいられません。不易流行を体現するまちの美容室として150年、200年とこれからも続いてほしいなと心から思います。
そして、活力あふれる千津子さんが、今後「月や」を通してどのように井波のまちを盛り上げていくのか。八日町に進出した千津子さんの今後の活躍に期待大です!


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