【往復書簡】これほどまでに生きている。

上の壇珠さんの記事へのお返事です。

壇珠さんのお返事に10回以上ゲラゲラ笑い「この人、絶対に頭おかしい」って50回以上思いました。自分が小さく思えてなりませんでした。完敗です。悔しいとさえ思いませんでした。大事なことがたくさん書いてあったはずなのに、読後は「ああ、楽しかった」という記憶と表情筋の疲労以外はなんにも残りません。女性であるはずの壇珠さんが、ナチュラルに『俺』という一人称を使うのもツボでした。人間でさえ無いと思いました。正直に言うと『バケモノ』と思いました。そして、最も恐ろしいことは、それを読んでいる私(私たち)自身も、きっとバケモノであるに違いないということです。

壇珠さんがこれだけさらけ出してくれた以上、自分の頭もおかしくならなければいけません。それが礼儀だと感じます。前に、ベリーダンス体験者の話を聞きました。彼女は言いました。露出の多い衣装を着ることが恥ずかしくて、最初は露出の少ない衣装で踊ろうとした。だが、他の先輩方が露出の多い服を着て堂々と踊るものだから、隠している自分が逆にものすごい恥ずかしい存在に思えた。自分には自意識がありますと言っているようで、露出をすることより露出をしないことを恥ずかしいと思ったのです、と。価値観が逆転するこの感じ。この感じなうです。いい格好をしようとする自分を、生き延びようとする自分を滅殺するセンスが、問われているのだと思います。

われわれは男と女をテーマとして話をしていますが、圭吾さんとは男も女も超越したものを感じます。人間として、というところも超越していると感じます。それは、男としての女としての人間としての返しをするべきだということに縛られないやり取りだからだと、勝手に思っています。

我々(壇珠&坂爪圭吾に限らず、これを読んでいる読者様も含め)人間は、実は、人間の振りをしたバケモノなのだと思います。いい子ぶって生きてはいるものの、実は、全員バケモノ。あなたも私もクリムゾンリバー。その前提で話を進めます。壇珠さんのお返事を読むと「人間、ここまで思ってもいいのか!?」という、衝撃波による解放を体験します。自分も似たようなことを過去に思ったことはありますが、壇珠さんは常に『それ以上』の感情を出してきます。それに引っ張り上げられる感じで、自分のバケモノが解放をされるのです。だから、壇珠さんだけがバケモノであるという話ではなく、それに触れた人々も「あ、俺(私)もバケモノだった」ことを思い出すのだと思います。バケモノになんて普通なりたくなんかないはずなのに、価値観が崩壊を起こし、無性にバケモノ(自由)になりたくなってしまうのです。

この惑星でもう人間をやることができなくなると想像してみると、名残惜しさのあまりその場でボロボロに泣きました。そして怨念を持って、なにかに対して「絶対に好きにさせてもらうからな」と思いました。

「絶対に好きにさせてもらうからな」という言葉、大好きです。裏を返せば「俺は、絶対にお前の言うことは聞かない」ということだと思います。先日、近所からクレームをもらいました。私は音楽をやるものですから、時折、演奏会と称してみんなで集まって音楽を奏でることがあります。その時のボリュームが大き過ぎたために「音量をさげるか、場所を変えるかしてください」という匿名の手紙が、郵便受けに入っていたのです。手紙と言っても、パソコンの文字。手書きではありません。匿名というのも気に入らず、正直「なんだこいつ」と思いました。絶対に言うことは聞いてやんねえと思いました。悪いのは完全に自分なのですが、引いたら負けだと思いました。

や、これだけ書くとまじで迷惑なだけの男に見えるかと思いますが、言い訳をさせてください。私の家は高級住宅街にあるのですが、彼らの心は貧しいです。全体的に「俺も我慢をしているのだから、お前も我慢をしろ」的な雰囲気が充満しています。誰かを迫害するときも「あのひとがああ言っていましたよ」とか「私は別にいいのだけど、○○さんが困っているみたいで」みたいな、間接的な攻め方をしてきます。私は、そういう善人ぶった正義を押し付ける人間が大嫌いなものですから「勝負だ」と思いました。無論、ボリュームはさげるのですが(一般的な常識はわきまえているつもりです)、絶対に申し訳なさそうな顔はしてやらねえと思いました。なんなら、クレームが来るたびにボリュームをあげてやろうかとさえ思いました。全面戦争だ。そんな気持ちになったのです。その説明を、もう少しだけさせてください。

「誰かに迷惑をかけない限り、好きなように生きればいい」みたいな言葉を聞きます。私は、なんだそれ、そんなことできるわけねえだろと思います。一見正論っぽいけれど、大間違いだと思っています。迷惑とは、生きている限り無意識のうちにかけちゃっているものだと思います。それなのに「自分は誰にも迷惑をかけていない」という思い上がりは、醜いです。迷惑をかけるなと言うことは「死ね」と言っていることと同じです。死んでも葬式代がかかるから、結局死んでも迷惑です。生きても迷惑。死んでも迷惑。だからこそ、今こそ我々は「楽しい迷惑のかけかた」を学ぶべきだと思うのです。

新しいことをやると必ず批判をされます。失敗をすれば馬鹿にされます。しかしながら、ここで引いたらアウトだと思っています。クレームが来たら、ボリュームはさげます。ただ、ここで心まで引いてしまったらアウトだと思うわけです。「悪いことをしてしまった」とか「迷惑をかけてしまった」とか「ほらやっぱりこの場所では無理だった」みたいに、卑屈になったらおしまいです。言うべき言葉は、そんな言葉ではありません。リメンバー壇珠。クリムゾンを思い出せ。そんな言葉よりも、言うべき言葉は「絶対に好きにさせてもらうからな」だと思います。お前らみたいな人間をぶちのめしたくてはじめた活動であるからこそ、引いてはなりません。なにかを変えたくてはじめた活動を、嫌いな人間のひと言で諦めてしまってはならないのです。

みんなが楽しく生きることができたら、こんな暗殺者エックスみたいな真似をしないでも済むのだと思います。高級住宅街に貧しい精神で暮らし続ける彼らを、私は「かわいそうな被害者どもめ」と決めつけることにしました。俺も我慢をしているのだからお前も我慢をしろの我慢大会に、私は参加をしたいと思いません。自粛自慢は懲り懲りです。死んだ後に天国で神様に「自分はなにも悪いことをしなかったから褒めてください」と言ったところで、神サイドからは「真面目か」と突っ込まれておしまいです。せっかく俺が用意した地球という最高の舞台を、失敗しないことに命を燃やしたお前は面白いと言えば面白いけれどやはりトータルとして退屈な人間だ、と。もったいないことをしたね、と神様から哀れみの表情を浮かべられるのがオチです。

横浜で一緒に暮らしている春花という女性が、先日、踊る場所を求めて新横浜の川辺をうろついていました。あ、ここがいいなと思った場所には、野鳥を撮影しているカメラマンの男性がいました。春花は、カメラマンの男性に「すみません、ここで踊りの練習をしたら邪魔になっちゃいますか?」と尋ねました。すると、男性は「いえいえ、どうぞどうぞ。それも含めて自然ですから」と答えました。素晴らしい回答です!!聞きましたか!!みなさま!!これです!!我々が求めているのはこれです!!「それも含めて自然ですから」こそが一蓮托生感であり、いま、世界に足りていないのはこれです!!このマインドです!!なにかあるとすぐに「迷惑になるからやめろ」では、世界がどんどん狭くなります!!それではいかんです!!遊ぶ場所がどんどんなくなり、世界はどんどんギスギスします!!違うだろ、と!!そこじゃないだろと!!共存共栄だろ、と!!引いたら負けだと!!それでは全体主義と同じだろ、と!!お前がお前なら俺は俺だぜ、だろ、と!!!!

すみません。取り乱しました。私が言いたいのは、要するに「楽しもうよ」と言うことです。自粛するべきところは自粛しつつ、楽しむことまで自粛をしたら、世界がどんどんつまらなくなるではありませんか。正論全部を悪いとは言いませんが、あらゆるものは「裁くため」ではなく「許すため」に使ってこそだと思います。知識も、経験も、人を裁くために用いると、必ず自分の首を締める結果になります。同じ世界を生きているのだから、誰かに禁止をすることは、自分に禁止をすることになります。自分に許せていないことを、他人に許すことはできません。だからこそ、私は「楽しもうよ」と言いたいのです。音楽の楽しさを知っていれば、そこまで目くじらを立てなくてもいい程度のボリュームだったと思います(多分)。なんと言いますか、私は、楽しそうに生きているだけで怒られているという感覚を抱きました。そこに、違和感を覚えたのだと思います。楽しもうとしている人は、楽しもうとしていない人の言葉に、負けてはいけないのだと思ってしまうのです。

美しいものは生命の喜びですよね!おっしゃるとおりだと思います!女性の内面の綺麗さのほかに、圭吾さんはどんなものに美しさを感じますか。

ご質問ありがとうございます!!

私は、パプリカを見ると「神様はいる」と思います。あのフォルム、なんだあれ、なんであんなに可愛いのだとなります。別に黒色でもよかったはずなのに、我々のテンションをぶち上げる鮮やかな赤色(あるいは黄色)。あるいは、あの形状を見て「可愛い!」と思うように人間を作った神様のセンス。素晴らしいと思います。私は宗教的な人間なので、神様を感じる場面に美しさを感じます。たまに「坂爪さんは犬派ですか?猫派ですか?」と問われますが、私は「生命派です」と答えます。猫でも犬でも草でもかめむしでも、命あるものに「うおう…」と感動を覚えます。まったくよくできているものだ、ということに感動をしているのかもしれません。夕日も、朝日も、大好きです。朝日を見ると「世界が目覚めました」と思うし、夕日を見ると「今日も生きた。明日も生きよう」と思います。私は、生きているもの、生きようとしているもののなかに、美しさを見出しているのかもしれません。

突然ですが、壇珠さんは、自分の中に『闇』みたいなもの、あると思いますか??私は、昔まではあると思っていたのですが、最近は「闇なんてない」と思うようになりました。友達も少なく、生きる希望も少なく、暗黒の10代を過ごしていた当時の私は、自分の好きな音楽を聞いている間だけは「もう少しだけ生きていよう」と思うことができました。自分の中にある闇に、他の誰かが抱える闇が(音楽を通じて)寄り添ってくれているように感じて、ああ、自分だけではないのだなと慰められていました。そのことによって、生きる活力を得ていました。ただ、時は流れ、別にいまも昔も闇なんてなかったんじゃないのかと思うようになりました。あったのは、ただ「これほどまでに生きている」と主張する感情だけで、それは、闇でもなんでもない。ただ、生きていると言うことの『強さ』だけがあったのだと思います。

まとまりのない手紙になってしまいました。私は、今、日本の名古屋に来ています。私の器はおちょこの裏より小さいので、なにかあるとすぐにイラっとしてしまうのですが、一旦冷静になって「みんな昔はかわいいこどもだったんだよな」とか「みんな当たり前だけどお父さんとお母さんがいるんだよな」とか思うと、苛立ちはおさまり、菩薩のような気持ちになります。そして「最後にはみんな死ぬんだよな」とか思うといよいよ菩薩モードは最高潮を迎え、終わりがあるから今が輝くんだよな、それまで精一杯に生きていこうな、一緒に、と、見たこともない人と肩を組みたくなったりしています。

バッチ来い人類!うおおおおお〜!