ツルツルとガサガサについて

しばらくいくつかの活動の中に埋没しており(でもほんとうはもっと、色々とできるべきなのだろうけれど)、純粋なエッセイというものから遠のいてしまっていた。原点に戻ろう。どうでもよいような事が、いつでも最も大切だ(つまりそれらは、決してどうでもよくなどないということだ!)

2ヶ月以上も前、世の中が今よりも更に特別なムードであったあの時期に下書きに書き残してはいたものの仕上げをサボってしまっていた文章が、なんだかありまして。そこで、重い腰を上げてどうにか以下に仕上げました。


ーーーーーーーーーー
(6月初旬 記)
長い自粛生活だった。いや過去形ではない、今後もずっと先まで、これに類似した状況が続くだろうと、もちろん認識もしていますが、一旦この2ヶ月間を振り返り、「た」で区切りたかった。

この2ヶ月、何をしていたのか。一応色々ちょこちょことやってみたけれど、大きな1つには「自然」があった。ネイチャー、ネイチャー、自然、、、実家は幸いなことに(これはこの時期には本当に幸福なことだったと感ず!)よき田舎にあって、家は一応住宅地内にあるが1分も歩けば、広い広い農地に出る。そこは"遠さ"ということをきちんと認識できるような特別な場所だ。

画像3

画像2

そこを毎日毎日散歩した。初めのうちは音楽を聴きながら…というよりも、音楽を聴くための散歩を。でも次第に音楽を聴くこともやめてしまった。散歩は意外に容易ではなかった。五感全てが必要、と思った。何も持たずにそこへ出る。するとそこには余りにも多くがあるのだ!片手間で素通りになど決して出来ない、余りにも多くが。考えてみればこんなに毎日沢山の草に会う日々はほんとうに久々だった。

「とてもガサガサしている。」

これが、散歩の積み重ねから得た、結論だった。そしてそこに1つの尊い本質を見た気がした。晴れの日も雨の日も360°、見渡せばその場所はガサガサとした手触りと、そうした音で溢れていた。草が擦れ風が耳元を掻き虫たちは、ガサガサと、鳴いては、跳んでいる。みなもが、複雑な形式をした雲が、葉の葉脈が、目にありありと映る。
身体がガサガサによって囲まれる、そのことが限りなく心地良かった。4月には4月の、5月には5月の違ったガサガサがまたあって、土砂降りの日を除いて毎日毎日外に出たけれども飽きることは、決して無かった。
東京でこの音を聞くのは非常に難しいという印象がある。ではパリでは?ーーーパリには小さな公園が沢山あって意外に自然も多く、そんな点でもとてもよく出来た街だ、でもそれはあくまで街の「部分」としての自然であって、それに囲まれることはなかなか、できない。


さて僕が普段携わるクラシック音楽の多くの作品にとって、このガサガサとした感触が、とても大切だと思う。工業化を経て世界にはツルツルとしたものが増えた。それが何も最新のiPhoneでなくたって、例えば木でできた机も、それが工業製品的であればあるほどツルツルに近くなる。そもそもホールもピアノも、今は安定的に大きくなって、おそらく昔よりは随分ツルツルとした。

僕が昔から感じていることには、本や楽譜は、高価なブランド品の隣においても決して見劣りしない。それが安い文庫本であったとしても。それは1つ1つの本に想いと手間暇をかけたデザインが乗っているからということももちろんあるのだと思うが、何よりも紙には自然の息吹がかかっているからだと思う。僕にとってどうしても楽譜が紙でなくってはならない、その理由がここにある。だってiPadというものなどは、ツルツルしているじゃない。ピアノの音は、良く調律されたものはもちろん美しくはあるが、決してツルツルなどではない。自然のザラつきというのか、あの、心に少し引っかかりのある音色が、ピアノにはあって、それなのに目ではツルツルとした電子楽譜を追ってゆく時のあの矛盾に耐えられない。軽いというのもいけない。質量と空間への憧れというものを僕は少し持っていて、たとえば重大な作品が軽い質量のiPadの中に収まってしまうのがいけない。楽譜は重くなくっちゃ(ただの偏った信仰だが...)。でも例えば10つの作品があったときに、楽譜の質量と体積はやはりどうしても10つの作品分であって欲しくって、10つの作品だろうと100つの作品だろうと同じ重量で1つの機器に収まってしまう、というのはどうにも耐えられない。


そんなこんなで。ツルツルから意図的に距離を置いて静かにザラザラと向き合ったこの数ヶ月は、良く、そして元の世界に戻ってゆくのが幾分おっかなくなってしまうほどに僕にとってはpreciousな時間だったのでした。日に日に心に刻んだ自然への憧憬をどうか今後あらゆる喧騒に出くわすとも忘れませぬよう、それに僕は幸い芸術家なので、身辺は便利でなくったっていい、どうか今後沢山のよき手触りで、自分の周囲を満たしてゆけますよう。


ーーーーーーーーーー
・余談。カラスはカァと、スズメはチュンチュンと鳴くということになっているが、ほんとうはカァとガァの中間、チュンチュンとヂュンヂュンの中間だとこの期間中に思った。カァ/チュンチュンよりももう少し、やはりガサガサしている。

・最後に、存在は以前からなんとなく知っていたが、たまたま畦道をガサガサと歩きながら聞き流していたら、その魅力が突如完全に附に落ちて大好きになってしまった、ラヴェルの1つの歌曲を、紹介しておきます。
Ravel : Sur l’herbe『草の上で』
探し、聴いてみて下さい。

画像6



この記事が気に入ったら、サポートをしてみませんか?
気軽にクリエイターの支援と、記事のオススメができます!
あざす(ありがとうございます の略)
173
ピア二ストの務川慧悟です。
コメント (5)
全体の主旨からは外れますが、電子書籍と紙の本を比較すると、“知る”という点、“記憶に残る”という点では紙の本の方が良い(らしい?)というのを聞いた事があるので、“救い”を求める気持ちで楽譜だけは絶対に紙のものを使っています。

田舎の良さも解って下さる若者・務川さん、テクノロジーの進化だけに拘らない務川さん…クラシック音楽には、そんな姿勢や考え方も大切なように思います。

エッセイ集も“紙の本”で出版して下さったら嬉しいです。
散歩している時に景色だけでなく音や匂い、そして時の流れを感じます。それは実際に体験しないとわから無い事・・・映画「マーラー」でカウベルの音がうるさくて牛を追いかけるマーラの姿を思い出します。それは、人が意図して創ったのでは無い美しさ・・・
デジタルとそうでないかの違いは慧悟君の書いた通りそこに存在するデータの量と重さ(重量と重要さ)が比例しない事への違和感を感じてしまうことですね。そして、書籍も楽譜も現物には装丁も有る(この間の「マ・メール・ロワ」は最高でした)。最近、小学生の女の子が古いスタイン・ウェイの鍵盤を見て「色が黄色い、何故?」と聞いてきて象牙の鍵盤を知らないことに少しびっくりしました。人工象牙に変更したのは間違いだとは思いませんがあの触れた感じの違いを感じて欲しいとは思います。同じ鍵盤楽器でもパイプオルガンの様に弾いたデータそのものが機械を動かしていれば逆に違和感も感じないかも知れませんが・・・行けない時の配信は嬉しいですが、やはりホールで生で聴きたいものです。重要なのは慧悟君の奏でる音楽と創る世界なのですが・・・💘
私も好きです、ガサガサ。でも日々の生活に追われるうちに、それを感じる感覚がすっかり鈍くなってしまったことに気づいたのは、やっぱり自粛期間中のこと。
(のんびりした郊外に暮らしているにも関わらず。これはもう自分の生き方の問題ですね)
この期間はなかなか大変だったけど、そんな自分を思い出せたのは、よかったかな。
忘れないようにしたいです、私も。
でも忘れてしまったら、また思い出せばいい、ですかね。
さて。
ラヴェルさんの歌曲、素敵でした!歌詞のユーモアも含めて😃
翻訳がないと歌詞がサッパリ分からないので、分からないながらも情感溢れる演奏を聴いて満足してしまいがちなのです。でも歌詞の表現、知ると楽しいですよね。
歌曲、なかなか出会う機会がないので、また教えてもらえたら嬉しいです☺️
あ、カラスが鳴いてる。
こっちも聞き直してみなくっちゃ😃
ツルツルとガサガサ。務川さんは何についてそう思われたかと考えました。ひょっとして「心」かな、と思いましたが、違ってました!
務川さんがご実家のまわりの景色を、よくTwitterなどでアップされていて、それに触れるたびに、務川さんを創りあげた原点なんだなと感じます。あの素晴らしい自然に、匂いや風や、そしてガサガサという触覚を感じられるのですね。
技術が発達すればするほど、全てがガサガサからツルツルに変わっていくのですね。今回、務川さんの随筆(エッセイかな?)を読ませていただいて、初めて気づきました。ガサガサがツルツルになる事で便利に、綺麗になっていく素晴らしさの反面、ガサガサであるべきとこだわりたい事がありますね。それは大事にしていきたいと感じます。
今、務川さんの新しいCD、日本デヴューアルバムを聴きながら書いています。一音一音に気持ちが込められた美しい粒の連なりに、胸が熱くなります。その表現は、あのガサガサを感じる自然に接していらっしゃる務川さんだからこそなし得るのではないかと感じます。
今回もステキな随筆をありがとうございました。これからもステキな演奏を聴かせてくださいね✨🎹🥰
コメントを投稿するには、 ログイン または 会員登録 をする必要があります。