いやなことも自分の形がみえてくる機会
どうやら、愛知では一時停止の取り締まりが強化されているらしい。
曖昧な基準にいかりを感じるし、そんな基準だと警察の信頼性を下げることになるかやめたほうがいいんじゃないかなって。まだ、くっきり違反が出るスピード違反の方がマシ。(そっちもやだけど笑)
けど、この取り締まりのおかげで、自分の価値観がくっきりみえた。
まちがいだっていうジャッジのもと話がすすむ、っていうことに反応してる。それは、一生懸命にしていたことを蔑ろにされる行為で、一方的に罰を与えるっていう行為であったのだ。
普段から「きく、きいてもらう」っていうことを軸に活動していることもあって、「お前、悪い」っていうところから始まる場からすんごい離れていたんだなとも感じた。
こちらの立場に寄り添ってもらえない。相手はたたきのめしにきてる。こっちも叩きのめされないように武装する。半分以上、言動から怒りが滲み出ていた。心を落ち着けてみると、自分もおそろしい。果たして相手が暴力に訴えたとき、間違ってるという態度できたときに、相手のことをおもいやるスペースはでてくるのだろうか。
このことを普段のコミュニケーションにも置き換えてみる。相手が間違っていると思うと、やはり相手にわからせようとしてしまうことも多いと思う。
相手がどんな立場にあって、どんな背景があるのか見ようとしないで、間違っている、相手を正そうとしてしまいがち。
すごいくだらない事例なんだけど、家族で住んでいると、勝手にモノが動いてる現象があって。夜中に、赤ちゃんを包む膝掛けがない!絶対パートナーが動かしたな、自分が動かすはずがない!!この〜〜〜!!!って怒りを覚えたことがありました。しかし、その数分後に仕事場の椅子に膝掛けがかかっていて、自分が動かしたことに気づきました。たぶん、夜中じゃなかったら、パートナーにまず怒りをぶつけてしまったかもしれないなと思ったことがあったんですよね。
しかし、膝掛けくらいでそんな怒るなよって思う人もいるかもしれませんが、その現象も、やはり背景を知らないからなんです。育児をしていると、毎日夜中に起こされて、なるたけ必要なモノが近くにないと毎日毎日のちょっとしたストレスで、すんごくツライんですよ。
人間は、自分の見ている世界が正しいと思いがちですが、世界は人の数だけあるんです。相手の世界も正しい。ただ相手の世界も正しいって思えるためには、一呼吸が非常に必要なんですな。それは、怒ってるときこそ。警察に怒られているときに、反論している自分は無呼吸だったでしょうけど。
まちがいもせいかいもない対話の世界にいると、自分の見方がどんどんかわる。新しい見方がしっくりくることもおおい。けど、その機能がはたされるのは、きく、ききあえるということが正常にできるときなのかもしれない。
そんなことが書いてある、東畑開人さん「聞く技術・聞いてもらう技術」は読んでもらいたい。優しくなれる、一呼吸おけるようになれる処方箋。
そしてもう一個、ほんとに絵本を読みながら一呼吸できる「すっすっはっはっ こ・きゅ・う」
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