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『お白洲から見る江戸時代』~読書感想文#40の⑤ 「仕来り」から現代へ

表題の本をご紹介しながら、敬語と共通する考え方、現在にも通じる組織運営の在り方を考察しています。
先週は、治者が自らを厳しく裁く自浄作用が、民の信頼を生んでいたであろうこと、治者の目が民を向いていたように思われることなどを書きました。
今回はその最終回です。

「仕来り」とは

「仕来り」というと、古めかしく役に立たないもの、打破すべきものと捉えられがちですが、江戸時代は「仕来り」を大事にした時代でした。では、その「仕来り」とはどういったものでしょうか。

江戸時代の御白洲はその本質と形式を「仕来り」として受け継いだ空間である。(中略) 江戸時代における「仕来り」の重視とは、過去そのものの単純な墨守を意味しない。その本質を受け継ぎつつも、改良や変化を経た現在、すなわち維持されるべき現状を「仕来り」と呼んで重視したのである。

P.306

今、受け継ぐべき本質を見失い、皆が路頭に迷っていないでしょうか。

江戸時代の御白洲。それは公儀が人々に向き合い、その正義を示す舞台であった。 より正確に言えば、為政者が世の中の「理非」を裁き、あるべき「道理」を人々に示す「御政事」の場、だったのである。 その空間には、裁く者を上とし、裁かれる者を下に位置づける明確な上下の秩序がある。さらに裁く側である奉行や下役も、それぞれの地位や役割によって厳然と席を分かち、裁かれるために出廷する者たちも、それぞれ尊卑上下によって座席を「差別」された。 御白洲と呼ばれたその空間は、そのために座敷・上緣・下緣・砂利という段差のある構造を有し、江戸時代の社会秩序が可視化される"世界の縮図”としての意味も持っていた。

P.305

「お前はこれをやれ」と支配者が民に命じて断れば死ぬしかないというなら、これは独裁です。だから現在の法律では、やってはいけないことのみが書かれているのです。(憲法に三大義務はあります)

人が自分に合った仕事を求め、自分らしく生きる。ただ、人は間違え、迷う。その時に、素晴らしければ褒章を与え、トラブルが起きれば正しい在り方を指し示す。身分の上下を明らかにし、上には相応の責任も負わせるし、下には恩恵も恩赦もある。

信仰ではなく、納得と信頼と安心。日本人の心に染み付いた神道や仏教がベースにあったからこそできたことかもしれませんが、これが、特定の宗教の力を借りなくても、平和に統治できた理由の一つかもしれません。

現代へ

本で得られるのは、物事の一面だけです。現代を生きていても現代のすべてが分かっているわけではないのに、本書一冊を読んで江戸時代が分かるわけではありませんが、現代とは違う考え方ややり方の示唆にはなるのではないでしょうか。

席次で上下を可視化することは敬語と同じ機能です。私たちが普段敬語について話すとき、上司に向かって「お疲れ様です」と言うのは間違い、などのように、敬語を使う側(目下)について話されることが多いと思います。(このブログでもそうです)

一方この本では、可視化した上下をどう使っていくのか、目上の立場にいる人たちの視点を解説した本という側面もあります。

ならば、お白州はなくなってしまったけれど、敬語を使ってそれらができるのではないか。敬語の可能性を改めて感じました。

それでは、また。


【実戦敬語概論】立場と責任を明確にする敬語で、信頼される自分になる


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