あたらしい憲法のはなし~四 主権在民主義
新憲法ができたばかりの頃、政府は新憲法をどう思っていたのでしょうか。
当時の文部省が、中学校1年生用の社会科の教科書として発行した『あたらしい憲法のはなし』を少しずつ、じっくり読んでいきたいと思います。
太平洋戦争終結後の1947年8月2日に発行されたものの、1950年に副読本に格下げされ、1951年から使われなくなったそうです。
全部で十五章ありますので、一章ずつ青空文庫から転載していきます。
今回は第四章『主権在民主義』です。
(まとめ部分を太字にしました)
そして、自民党草案について思うところも記載しましたので、どうぞ最後までお読みください。
四 主権在民主義
みなさんがあつまって、だれがいちばんえらいかをきめてごらんなさい。いったい「いちばんえらい」というのは、どういうことでしょう。勉強のよくできることでしょうか。それとも力の強いことでしょうか。いろ/\きめかたがあってむずかしいことです。
國では、だれが「いちばんえらい」といえるでしょう。もし國の仕事が、ひとりの考えできまるならば、そのひとりが、いちばんえらいといわなければなりません。もしおおぜいの考えできまるなら、そのおゝぜいが、みないちばんえらいことになります。もし國民ぜんたいの考えできまるならば、國民ぜんたいが、いちばんえらいのです。こんどの憲法は、民主主義の憲法ですから、國民ぜんたいの考えで國を治めてゆきます。そうすると、國民ぜんたいがいちばん、えらいといわなければなりません。
國を治めてゆく力のことを「主権」といいますが、この力が國民ぜんたいにあれば、これを「主権は國民にある」といいます。こんどの憲法は、いま申しましたように、民主主義を根本の考えとしていますから、主権は、とうぜん日本國民にあるわけです。そこで前文の中にも、また憲法の第一條にも、「主権が國民に存する」とはっきりかいてあるのです。主権が國民にあることを、「主権在民」といいます。あたらしい憲法は、主権在民という考えでできていますから、主権在民主義の憲法であるということになるのです。
みなさんは、日本國民のひとりです。主権をもっている日本國民のひとりです。しかし、主権は日本國民ぜんたいにあるのです。ひとり/\が、べつ/\にもっているのではありません。ひとり/\が、みなじぶんがいちばんえらいと思って、勝手なことをしてもよいということでは、けっしてありません。それは民主主義にあわないことになります。みなさんは、主権をもっている日本國民のひとりであるということに、ほこりをもつとともに、責任を感じなければなりません。よいこどもであるとともに、よい國民でなければなりません。
あなたは、これを読んで何を感じましたか?
そして、何を思うでしょうか。
自民党草案では
第十二条には下記のようにあります。(太字筆者)
責任も義務もそんなに変わらないんじゃないか、多少の義務は当たり前かなと思う人のために、その少し前の第九条の三もご紹介しておきます。(太字筆者)
日本の人口は減少し続けています。憲法が改正されれば、自衛隊だけでは人が足りなくなるかもしれませんが、このように憲法で規定されていれば、徴兵を断る国民を逮捕する法律を作ることもできるでしょうし、国難に際しては個人の財産を没収することもできるでしょう。国外に逃げる道も断たれるかもしれません。子どもを産むのは個人の権利ではなく国民としての務めになるかもしれないなどと考えるのは想像を膨らませ過ぎでしょうか。
ほんの少し前まで(今でも?)結婚し子どもを作ることが人間として当然であるかのようなプレッシャーがありました。選択肢が増えることを嫌い、そんなことをしたら結婚する人がいなくなってしまうと憤る人たちは、そのプレッシャーがなければ結婚しなかったのに無理やり結婚させられてしまった人たちなのかもしれません。しかし、昔の人たちが不幸だったからといってこれからの人たちが不幸であり続ける必要がどこにあるのでしょう。
今ある人権は当たり前のものではなく、民主主義は守らなければ奪われるものなのではないでしょうか。
最後に、自民党草案 第百二条を記載します。
公務員らは「尊重」はせず「擁護する義務」だけが残りました。自民党草案において、憲法を尊重しなければならないのは「国民」のほうです。
世界や自分自身をどのような言葉で認識するかで生き方が変わるなら、敬意を込めた敬語をお互いに使えば働きやすい職場ぐらい簡単にできるんじゃないか。そんな夢を追いかけています。