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貧しく陳腐な夢は、幻となりうるか? TVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』読書会【闇の自己啓発会】ラプソディー編

2020年7月某日、Zoomミーティングにて、荒岸来穂、秋好亮平、江永泉、池堂の4名でTVOD『ポスト・サブカル焼け跡派』読書会を行いました。実施から約1年、紆余曲折ありましたがなんとか形にすることが出来ました。四者四様の仕方で「サブカル」に触れてきたメンバーにとって本書には頁を捲るたびにフックがあり、楽しかった記憶があります(なにせ、1年近く前なので……)。

※本記事の背景は以下などをご参照ください。

《参加者一覧》

【荒岸】来穂:一番好きな「Luv(sic)」は「Luv(sic)pt6 Uyama Hiroto Remix」。
【秋好】亮平:一番好きな「ビートたけし楽曲」は「抱いた腰がチャッチャッチャッ」(「浅草キッド」除く)。
【江永】泉:一番好きな「うっせぇわ」はsyudou「うっせぇわ(self cover)」。
【池堂】孝平: 一番好きな「あぶらだこ」は「あぶらだこ(亀盤)」。

《はじめに》

【池堂】今回の課題本、どうでしたか? 自分は面白く読んだんですが。
【江永】ネットとかで見聞した感じ評判よかったです。
【池堂】内容もそうですが、展開の仕方が面白かった。
【荒岸】正直、個人的にはあまり乗り切れなかったです。
【秋好】こういう仕事を自分もしたいな、とは思いましたね。僕自身は割とこの方向性が好きなので。
【江永】勉強になりました。自分の場合、日本の音楽と文化っていうので頭に浮かぶのが佐々木敦や杉田俊介の書いたものだったんですけど、前に読んだimdkm『リズムから考えるJ-POP史』(2019)もそうですが、1980年代以降の書き手による本がどんどん出ているんだなと改めて感じました。
【池堂】TVODは二人とも1984年生まれですか。
【秋好】だいたい一回りくらい僕らの上になるのかな。
【江永】あと注のところで、どちらの言か失念しましたが、大塚英志に強く影響を受けたと書いてあって、実は自分も高校を出た頃に『キャラクター小説の作り方』(2003年)などを後追いで読んで影響を受けた身なので印象に残りました。(後で探したんですが、見つけられませんでした。p.18の注12「あさま山荘事件」の「膨大な論考が出ているが、TVOD的には大塚英志『「彼女」たちの連合赤軍』(文藝春秋、1996年)が外せない」などで大塚への言及があったのと、アーティストの自意識と身体性に着目して時代的なメンタリティと関連付けて論じるふたりの語りに大塚っぽさを覚えた印象から、早とちりをしてしまいました)

【秋好】どっちだったかな。
【荒岸】あまり二人の区別がついていないんですよね。
【池堂】どちらかというとコメカさんがたくさん喋って、パンスさんが合いの手を入れるみたいな感じで進んでいましたね。
【荒岸】二人の区別がつかないってところから話つなげたいんですけど。読書会の最初に話すべき内容か分からないですが、僕がなぜ本書にあまり乗り切れなかったかという話をさせてもらいたくて……。ひとつには、僕が今まで通ってきたカルチャーと本書の内容が合っていなかった点。「サブカル」っていろんな種類の「サブカル」があると思うんですが、自分が通ってきたものは本書が前提としてきたそれとは違っていた。まあこれは僕自身の問題でもあるんでいいんですけど、もうひとつ気になったのが形式面。対談の形を取っているのに、対談をしている感じがしない。さっき二人の区別がついていないといいましたけど、ひとりの人物が書いているような感じがしてしまって。
【江永】なるほど。
【荒岸】二人とも同世代で、だいたい同じものを通ってきていると思うんですけど、二人に共通する体験とか知識とかを前提に話がどんどん進んでいくから、彼らの言う「サブカル」に疎い、部外者である自分にとっては話がよく分からないままになってました。通常、対談形式だと、違う分野の人たちが相まみえることになって、どこかで衝突や躓き、ズレ等が発生して、そののちに合意形成がなされて、という過程に部外者も入り込める余地があると思うんですけど、本書にはそういう要素がないまま、話がすらすら進んでしまう。各論としてはなるほど、と思う箇所はあるんですが、全体の文脈がこちらに共有されないまま終わってしまった、という感覚はありましたね。
あと形式の話で言うと、エピローグや「あとがきにかえて」で書かれていることって、本書の目的とか問題意識みたいなことをしっかりと語っているんですが、これは本の最初に持ってきて欲しかったです。こういう目線でこの二人は話しています、という諒解を得ないまま話が進んでしまっていたので、どういう史観をもとに話されているのか分からない、というのが、部外者が入り込めない要因なのかなと思いました。
【秋好】そのあたりは何というか、良くも悪くも同人誌的な感覚があるように思います。
【池堂】形式面でいうと、もともと対談という要素をこの本はあまり前面に出してないような気はします。TVODは二人の「テキストユニット」ということで、二人が揃ってTVODになるというか。違う価値観を持った異なる分野の二人が「対談」する、という形を指向してはいないように思います。
【秋好】対談というよりは、あまり差異のない二人が相互補完的に話をしているという感じですね。
【池堂】実際はこの二人がまんまこの通りに話をしているとは考えにくいじゃないですか。当然、かなり編集の手が入っている。特にそのことを感じたのが、各章の終わりに次に言及する人物の名前を挙げるところ。そこで必ずと言っていいほど展開が盛り上がるんですよね。少し笑ってしまうくらい、きれいに話が繋がっていく。
【江永】著者の二人は本書を出す前からずっとこんな感じの話をして視座を練り上げてきていたんでしょうね、
【池堂】まずその積み重ねがあってのことですね。
【江永】だから史観というか、コンテンツのチョイスと問題の立て方が固まっていて、この話をしたら次は当然この話をするよね、という流れがしっかり出来上がっていたんだなと思います。
【池堂】背景に積み重ねがあって、さらに編集もしっかりしているから、そういう展開の持って行き方自体を面白く読んだ部分はありますね。例えば第1章の終わりにビートたけしの名前が出てくるところとか、印象的で。あ、次はそう来るのか、この流れでこの名前を出してくるのか、という楽しみが随所にありました。
【秋好】ドライブ感があります。
【荒岸】きれいに決まりすぎている感じもあり。
【江永】筋道立ち広がりのある見取り図であるぶん、はみ出すのは難しい。
【荒岸】最後の大森靖子の章で、コメカさんがめちゃくちゃ大森靖子を推していて、パンスさんがそれにあまり乗り切れていない感じがあるじゃないですか。たぶんここでもっと違う意見とかが出てきてもよかったのかなと思うんです。けれども、聞き手のパンスさんが割と当たり障りのない相槌しか打っていない。
【秋好】多分そこは本当に、特に言うことがなかったのかもしれませんね。
【荒岸】なぜそこで他の章と違って、あまり乗り切れないのかをもう少し突き詰めて欲しかったなと思います。やはり、せっかく二人で話すわけですから。
【秋好】そこがやはり二人の差異なんだなと思いますね。コメカさんは熱量をもって大森靖子について語っていますけど、パンスさんがそこから少し引いている。そこまでは史観が結構合致しているのに、2020年代に思いを掛ける人物を誰にするか、という部分に二人のスタンスの違いがある。
【荒岸】だからこそ、なぜそこで違いが生じたのかを詰めて欲しかったです。パンスさんの「あとがき」では若干そのあたりの言及もあったような気はしますが、煮え切らずに終わってしまったような。
【江永】ともあれ、これだけのコンテンツを大きなフレームワークに載せて、かつ全肯定をするのでなく、それぞれを批判的に見ていくというのは、すごい作業だなと思います。
【荒岸】射程の長さという意味ではすごいですよね。
【池堂】最後の章くらいじゃないですか、二人のスタンスが合ってない感じが如実に現れているのは。他の章でも二人が全く同じことを言っているのかというともちろんそういうわけではなく、視点は常に微妙に異なるんですが、でも基本的には同じ道を並走している感じがあった。それが最後、大森靖子の章ではすれ違っている。あの章で語られているのはこれからの可能性、不確定な未来についてなんですよね。だから結論が出ることはない。それまでは基本的に同じ道を歩んできた二人が「焼け跡」の先の未来を見据える時に、袂を分かつというほどではないですけど、違う道を選ぼうとしている、というのが本書を劇的なものにしている部分だと自分は考えます。
「焼け跡」の次に可能性があるとして、何処にその可能性があると考えるのか。コメカさんはそれを大森靖子だとしたわけですが、他の人物の名前をそこに挙げても良いはずなんですよね。実際、パンスさんはまだそれを決めかねていたんだと思いますし。本書を読み終わった後に、次の可能性に誰を代入するか、あるいは自分自身の表現に如何に繋げるかというのを各自考えていくのがいいんじゃないか、そんなことを最後のすれ違いは示唆しているようにも思えます。
【江永】そうですね、同時代の話って、何か言いたくなりやすいのに、はっきりした情報は少ないから、長い射程を取って語るほど位置づけが難しいですよね。
【池堂】リアルタイムに本人を取り巻く状況も変わっていきますからね。
【江永】まさに大森靖子関連でいうと、つい最近(読書会当時:2020年7月頃)ZOC(Zone Out of Control)が活動休止になりましたからね(注:2020年8月に活動を再開し、2021年現在はメジャーデビューしている)。

【池堂】本書において秋元康などとの対比で、可能性として語られていたZOCが。
【秋好】これを読みながら思ったのは、まさにそのZOCの件がタイムリーだったことで。「自分のキャラクターを信じる」といった理念でまとまったZOCというグループが、空中分解みたいになってしまう状況が今現在なんですよね。
【荒岸】キャラクターを信じ切ることができなかったのか、それともキャラクターというものが持つ重力がそうさせてしまったのかは、この段階では測りかねますが。
【秋好】状況が変わっていくところでいうと、本書の「はじめに」のところで、一行目から「今、この国は焼け跡化しつつある」とぶち上げてから、そのあと「2020年東京オリンピック開催に向けて、この国は愛国的なナルシズムをひたすらに増幅させ続けている」といった文章が続くんですよね。本書が出たのは今年の2月で、まあ対談自体はもっと前、おそらくは昨年に実施されているでしょうけど。そう考えると、本書が出てからの数カ月、コロナ禍が生じてからの流れが激動過ぎて。
【荒岸】そうなんですよね。星野源がまだうちで踊ってない。
【池堂】確かにそうですね。ただこの本の内容が一気に古くなったかというともちろんそんなことはなくて、むしろコロナ禍以後の流れと明確に結び付くと思っています。それにコロナを踏まえてのこうした文化状況の変遷をまとめた本って、まだ単著で出せるほどには時間が経過していない感じがします。雑誌の特集はたくさん出ていますが。
【江永】これはどれくらい同感してもらえるのかわからないのですが、先行きが激動でも暗くもなかった状態、というのを自分は知らないような気がしていて。私は「ゼロ年代」みたいな語に触れがちだったのでディケイドで区切って捉えがちですが、例えば2001年の9.11以後や、2011年の3.11以後に覚えた、もう今まで通りじゃないという感触に通じる暗さを、コロナ禍以後の状況にも見出してしまうところが自分はあります。
【荒岸】「終わりなき日常」が10年スパンで終わっている。
【秋好】「終わりなき日常が終わった」って言う人が現れて、それに対して「いや、終わりなき日常はそんなんじゃ終わらないから」って言う人が出てくる。
【江永】「世界の底が抜けた」みたいに言われたと思ったら、しばらくして、さらに底が抜ける。その繰り返しだった気がしています。
【荒岸】意外と底ってまだあるんだなという感じですね。
【江永】平成年間をほぼひっくるめる「失われた30年」みたいな言い回しもありますよね。主観的にはKikuoの『そこにはまた迷宮』(2017)とかが沁みる気分になるときがあります。

《サブカル(チャー)へのレクイエム?》

【江永】私は大塚英志の影響をこの本に過剰に見出していたんですけど、サブカルチャーに現れる自意識をナショナリズムと絡めて捉える姿勢は大塚っぽいという感触が自分にはあって。つまりコンテンツの内容とその受容に見出される集団的メンタリティを、ナショナルアレゴリーとして読み解くという姿勢です。
例えば大塚が『サブカルチャー文学論』などで石原慎太郎、三島由紀夫、村上龍、村上春樹などを論じるときには、消費社会化と戦後民主主義がアメリカによる占領体験抜きに語れないことへの屈託みたいなものをそれぞれの作品と作家、その読まれ方に見出していたと思います。すごく雑に言えば、近代化が消費社会化でアメリカ化で植民地化だという自意識の下で日本文化はこじらせがちだ、というのが大塚の見方だったと思うんです。そこでは植民地主義とジェンダー表象の絡み合いも念頭にある。
大塚の語った例ではないですが、マッカーサーが日本人は12歳の子供のようだと言ったらしい、みたいな内容が都市伝説的に広がっているところに、〈成人男性〉として恥ずかしくない〈一人前〉の姿を欲望する精神性を見出したりはできると思います。言い換えれば、ナショナリストの幼稚さを嫌悪するという〈まとも〉なはずの心性すら、実は〈女子供〉みたいと言われるのを恥じて〈一人前〉の〈男〉になりたがる類いの欲望に支えられていはしまいかという懐疑の問いが、大塚に見出せると思います。ポストコロニアル理論っぽく言えば、宗主国への対抗文化自体が女性蔑視を伴うナショナルアレゴリーに満ちているという問題意識。もちろん、アメリカ占領期などへの屈託語りが、戦中戦前の帝国主義を棚上げにする話題逸らしに過ぎないのではないかという懐疑もそこではあるわけですが。この手の問題設定はマイケル・ボーダッシュ『さよならアメリカ、さよならニッポン』の石原論の中でうまくまとめられていると思います。ただ、結局メロドラマ批判のなかで〈女子供〉的なものの軽侮に傾く声も止められない気がするボーダッシュ的な評価とは別の評価を大塚は取ろうとしている(ちなみに、いま日本メロドラマ映画の見直しを考える上では御園生涼子や河野真理江などの著作が必読でしょう)。酒井直樹などがバッサリと切り捨てる江藤淳を、上野千鶴子の議論と結び付けて大塚は論じるわけですが、それは『少女民俗学』や『「彼女」たちの連合赤軍』などの議論と地続きな話として(大塚の中では)あるはずです。
【秋好】そういえば『サブカルチャー文学論』だけじゃなく、『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』ってそのものずばりの江藤論もありましたね。

【江永】飛躍があるかもしれませんが、だから私は、要するに、大塚の〈少女〉論は戦士症候群などの転生幻想にある来歴否認的衝動をポストコロニアルな自意識と重ねることで成立していると考えています。サブカルやオタク(亜流の文化)を軽侮して批評に値する文学(まともな文化)をよしとしたがる欲望もまた、押し付け憲法論みたいなものを展開する欲望と変わらないというのが大塚の取っていた見方だったと思います。その上で、サブカルやオタクの思い願いは汲みつつも現にやっている所作は批判する、もっとマシなものにするよう呼びかけていく、その実演として批評と捜索を行うというのが大塚の試みの一側面だったと思います(これは私の理解では橋迫瑞穂が「子宮系」を論じるときの姿勢と通じ合うものです。大塚の念頭にあるのはナショナリズム批判で、橋迫の場合はミソジニー批判ですが)。私の感覚だと、例えばカゲロウデイズや千本桜を軽侮する声がネトウヨ批判の声と重なって聞こえる環境もあったわけです。(……と長々語りましたが、いまとなっては被害妄想的に響くでしょうし、ボカロに限っても、小林幸子がサチコサンを、米津玄師がパプリカを唄い、夜行性、うっせぇわなどの是非が議論される世界では、たしかにもう旧すぎて通じないというか、通じなくなるべき話なのかもしれないとも思います)クールジャパンなんてもう真顔で体制が使った上で批判される段階を通り越し始めているし、ポップカルチャーとナショナリズムの距離も、大塚がサブカルやオタクを盛んに論じていた80年代~ゼロ年代とはだいぶ異なる。例えば、いま、LINEマンガはもちろんですけど、comicoも韓国企業の子会社が運営しているんですね。ネット小説批判をネトウヨ批判に絡めて、みたいな話を安易にできる状況でもなくなった。ゼロ年代も韓流ブームはあったわけですが、サブカルやオタクのポップ化と、東アジアのポップカルチャーの広がりとかがあって、一国内のナショナルアレゴリーの枠組みで同じように論じていくのはもう難しい。ネット文化とナショナリズムの関係が変わってきている。
【荒岸】その点やはり中国出身のヒップホップグループ、Higher Brothersが興味深いのは、「WeChat」って曲があるんですけど、あれの出だしって「There's no Skype, no Facebook, no Twitter, no Instagram, We use WeChat, yeah-e」。この根性ですよね。

【池堂】日本だともしかしてそこでmixiを使おう、って感じになったりすることもあるんですかね。俺らにはまだmixiがあると。
【秋好】ガラケーとかもよく言われますけど、mixiが今のFacebookみたいな存在になっていた可能性もあったわけですよね。
【荒岸】結局そうはいかないからガラパゴスって言われるわけですけど。
【江永】たまに思うのは、ガラパゴスって言うのすごいなって。ガラパゴスと日本なんて全然関係ないじゃないですか。
【荒岸】そこはやっぱり、日本は進化論を雑な理解で受容していることが「もやウィン」で証明されましたからね。
【江永】その手の話題ですぐ思いつくのは、加藤弘之なんですが、進化論をそう使うのって明治以来の伝統なんでしょうか。
【荒岸】明治期の社会ダーウィニズムと天皇制家族国家観の関わりについては、古典の域ですが石田雄『明治政治思想史研究』がありますね。(追記:石田雄さんは2021年6月2日に亡くなりました。ご冥福をお祈りいたします。)
【池堂】あのもやウィンみたいな考え方、たぶんかなり浸透してるんだと思います。「権利と義務はセット」みたいな話とかも、小学校か何かの授業で教師が言っていたような記憶があり。
【荒岸】でも明治期以来の従来の社会ダーウィニズムって弱肉強食的世界観を社会構造に落とし込んでいくような考え方でしたけど、もやウィンの言ってることって「とりあえず変わろうぜ」くらいの内容だから、そこは重要な差異じゃないですか。
【江永】小泉政権やトランプ政権を思い出すべきなんでしょうけど、オバマ政権のことを思い出した。「We Can Change!」って人々が復唱していたのを。
【池堂】そこはオバマなんですか。
【荒岸】本当か?
【池堂】雑多すぎる。政治のサブカル化だ。
【荒岸】やっぱり、変わり続けることが偉いんであれば、早く実力のあるものをドシドシ天皇に……。
【池堂】今回の課題本で言ったらKREVAが天皇になるみたいなことですよね。ドシドシ天皇、見るたびに笑っちゃうんだよな。
【秋好】まあ天皇はキッチュな存在ですから。課題本に繋げていうと。
【池堂】キッチュで言うと、浜崎あゆみのドラマが絵に描いたようなキッチュみたいな話もありました。
【秋好】「M」ですね。
【池堂】正直視聴していたわけではなくて、Twitterに流れてくる断片を眺めていただけなので、何も言う資格はないんですけど。あんな作品が成立するんですか?
【秋好】田中みな実の怪演みたいな話題性もあってネタ的に消費されている気はするけど、これ怒られないのかなとは思った。
【池堂】あれ本人は看過してないんですか? 浜崎あゆみ公式Twitterはドラマの宣伝してないって聞きましたけど。
【江永】思い出したんですけど、ゼロ年代の浜崎あゆみのPVとか、やばくないですか? ドラマとして。自分が見たので一番気合が入っていそうなPVの内容が、浜崎あゆみと思しき人が病院(ないし実験場?)でウンウン唸っていたら、幻覚の中で戦国時代にタイムスリップして、謎のイケメン武士みたいなのと一緒に駆け落ちしようとして失敗、イケメンが死ぬみたいな話で。「Voyage」(2002年)ですね。

【池堂】浜崎あゆみって本書にも出てこないですけど、いわゆるサブカルって感じではないですよね。
【秋好】文化系サブカルに対するヤンキー文化というか。
【池堂】サブカルと対置される意味でのポピュラー文化といっていいのかな。
【荒岸】どこのサブカルか、で話が変わってくるんじゃないですか。自分自身それなりにサブカルというものに触れてきたつもりで読んだら、全然知らない世界が広がっていたのであまり課題本には乗り切れなかったんです。
【秋好】この本で取り上げられている話題は、割と「サブカル」の正統を行っているような印象は受けるんですけどね。
【荒岸】その「正統」というのが何なのかが分からないという話なんですよ。言い方は若干悪いかもしれないんですけど、「ヴィレヴァンにありそうなサブカル」という感想を抱いたんですよね。Creepy Nutsの「どっち?」はヤンキー文化の象徴として「ドンキ」、サブカルの象徴として「ヴィレヴァン」を描いていますが、まさしくその感覚。
【江永】なるほど。
【荒岸】あとはオタクカルチャーはサブカルに入るのかとか。
【秋好】その問題は議論の的になりがちですね。以前『ユリイカ』でそういう特集(2005年8月臨時増刊号 総特集=オタクVSサブカル! 1991→2005年ポップカルチャー全史)がありましたし、中原昌也や海猫沢めろんらによる『嫌オタク流』という本もありました。まあ2010年代になるとアニメもアイドルもサブカルとされて、もはや若い世代には対立の意識自体ないかもしれませんが。
【荒岸】少し話が大きくなってしまうんですけど、いわゆるカルスタ(カルチュラル・スタディーズ)で扱われるような「サブカル」とは違うじゃないですか、この本に取り上げられている内容って。
【秋好】カルスタで扱われるサブカル、というのはどの範囲のことを指すんだろう。
【荒岸】例えばロックとか、ヒップホップとかの話にはなるんですけど、本書の話題でいうサブカルと政治を如何に結び付け直すかっていうところ、そうした意識を常に持って活動してきた人物ってアーティスト側にも論者の側にもいると思うんですよ。少なくとも、そういう人たちについてカルスタは批評・研究してきた。でもカルスタが今まで扱ってきたそうしたものとは本書の内容は接続されてこない。
【江永】その話で言うと、いわゆる今言っているカルスタ系って、東浩紀が『ゲンロン』で、ゼロ年代のオタク批評と別にストリートの批評がある、と言った時のものですよね。
【荒岸】そうです、念頭にあったのは『現代日本の批評』での『ストリートの思想』再評価の話です。佐々木敦の『ニッポンの思想』と毛利嘉孝の『ストリートの思想』が同年で、東らは当時『ストリートの思想』に出てくるような社会運動みたいなのを下に見ていたけど、結局はこっちの方に批評性があったみたいな話をしているんですよね。で、『ストリートの思想』で取り上げられているような人物で、課題本にも出てくるのって江戸アケミくらいなんですよね。あとは、章立てはされてないですがECDとか。本書であまり取り上げられなかった部分の「サブカル」が、如何に社会とストリートというところで繋がってきたか、動いてきたかという話をしているんですけど。そのあたりに課題本はあまり接近していかない。一部とはいえ江戸アケミやECDに言及しているにもかかわらず。
【秋好】課題本の方は、例えば「サブカルチャー」と「アングラカルチャー」、それから「ポップカルチャー」と、割とミックスさせている感じはありますね。「サブカル」を割と広く取っている感じがある。「対抗文化」というか、いわゆる雑誌『宝島』とかで取り上げられていたような対象よりはもうちょっと広い感じ。
【荒岸】対象は広いですけど、精神的に一貫しているアーティストをピックアップしているから、結局視野は狭くなっているというか。矛盾じゃないですけどすごく逆説的な感じを受けたんですよね。
【江永】さっき「ヴィレヴァン的」という言葉も出ていましたが、TVODの二人の語りはなんというか「日本の土着のサブカルチャー語り」が下地になるというか。そうした語りをよりアカデミズムとか、ポピュラー・カルチャー分析に拡張したような印象だったんですね。それが大塚英志っぽいと思ったところでもあって。毛利さんの『ストリートの思想』とかは、イギリスとかの方のサブカル観というか、カウンターカルチャー観。だからヒップホップとかロックとかが対象になる。ストリート系は、そういう見方を日本に移植しながら、日本でもこういうコンテンツがある、ということを語っている印象だったので、そういう差異があるのかな。
【荒岸】確かに、そもそも課題本は、カウンターカルチャーから離されたものとして一番初めに矢沢永吉を挙げている時点で、多分毛利さんが目指したようなサブカルチャー研究というものとは一線を画そうとしているというのは分かります。これはすごくぼやっとした印象なんですけど、やっぱり「サブカル」と「サブカルチャー」って違うんだな、というのを思いましたよ。
【池堂】そういうのはある気がしますね。
【荒岸】佐々木敦も帯にこう書いてますもんね、「これは、今は亡きわが国のサブカル(チャー)へのレクイエムだ」と、わざわざ括弧書きにしているあたり、すごく示唆的です。
【池堂】佐々木敦はその二つに区別があることをよく言っているような気がする。
【荒岸】『実践カルチュラル・スタディーズ』(上野俊哉、毛利嘉孝共著)でも、YOSHIKIを分析対象としているんですよね。ただ、なにを扱っているかというと、天皇奉祝曲の演奏の件で、それに対して、東大知識人たちが批判したりしたことや、ファンの反応についての分析なんです。一方課題本ではYOSHIKIに対し記号化とか、物語の過剰さというところにフォーカスしていて、天皇奉祝の件はその一例として挙げてはいるけど、あまりそこを大きく扱うという感じではない。そのあたりに違いが出てくるのかなと思いました。

【池堂】X JAPANに関してはTVODの二人も、すごく詳しいという感じではなくて、外部から語ろうとしているところはありますね。当事者でもなければ十分に後追いしたわけでもないけれど、取り上げないわけにはいかないという姿勢。本書の章立てを構成する人選って、やっぱりある程度世間に影響力を持っていることを一つの基準にしている感じがあるじゃないですか。矢沢永吉や沢田研二にしても。今現在の、日本の精神性とか、政治状況とかに繋がっていくような存在を意図的にピックアップしているところがある。だから第2章ラストの江戸アケミなんかは少し浮いてるんですよね。
【秋好】そうね、この中だと江戸アケミは浮いている。
【池堂】正直江戸アケミに関しては、思い入れが強いから取り上げているようにも見えます。浮いているというか、荒岸くんも言っていたような感じで、ロックとかヒップホップとか、様々なシーンの中で政治批判も含めてカウンターカルチャー的なアプローチをしていた人達ってたくさんいるはずなんですけど、ではその人達が社会に大きな影響力を持てたかというと、基本的にはそう言い難い。というか今の日本の状況をみてるとそうじゃないよねというスタンスで、ECDとかも名前は出てきていますけど、独立した章で論じることまではしない。でもそんな中で、江戸アケミと大森靖子は章を設けている。

【江永】TVODの二人は、サブカルの中の女性カルチャーというものが今まで全然語られていなかったから、そこをフィーチャーしないと、という意識がありますよね。
【池堂】そこの問題意識はかなり強いですよね。だから最終的に大森靖子に至るのは決してただ最後に名前を出したかっただけ、ということは全くないと自分も思います。
【秋好】戸川純から椎名林檎、そして大森靖子へという章の流れですよね。
【荒岸】裏テーマとして「サブカル男子の男性性(マスキュリニティ)」の問題、オルタナティブなマッチョイズムに対する関心というのはやはりひしひしと感じる。
【池堂】ビートたけしや電気グルーヴ、星野源に行くまでの流れはそこを強く感じますね。
【江永】TVODの二人はまず「土着のサブカルチャー語り」から出発して、そこにおけるジェンダーバイアスやナショナリズムをまず対象化した上で、どのようにそれまでと違う語り方を出来るか検討している。〈私たちの文化〉が文化政治的にも悪いものではないと証明する、みたいな党派語りとは距離を取っている。
【池堂】土台にまず愛着があるんですよね。その上で、でも見直さないといけない、このままじゃいけないよねという問題意識のもとに、サブカル男子たちの歴史の語り直しをやろうとしている。
【江永】今のグローバルスタンダードっぽいものにそのまま乗っかって、昔って全然ダメな時代でしたねと尻尾切りみたいな感じにしていないのは立派だと思います。
【池堂】江戸アケミの話に戻ると、自分はこの章が一番好きでもあるんですけど。なぜ取り上げたのかというのを考えてみると、一つには江戸アケミが36歳で夭逝したことを背景に、ありえたかもしれない可能性を語る章として設けたのはあるかもしれないです。この次から90年代に入って、フリッパーズ・ギターが出てくるんですが、なんとなくこの前後で一区切りになっているような印象を受けるんですよね。江戸アケミの章でA面が終わるような感覚。次章からはB面みたいな。本書のラスト、大森靖子の章も同じく可能性を語る章だと思うので、そんな風に見えたんですけど。
【秋好】江戸アケミの章辺りまでは、TVODの二人がほぼリアルタイムで触れてないというのはあると思います。実際はフリッパーズ・ギターも後追いで、小沢健二・コーネリアス時代あたりからリアルタイムになってきている。第2章まではある種歴史として二人も語っていて、その中で見出した特異点となるのが江戸アケミだった、という流れがある気がします。
【江永】個人的に気になったのは、本書の流れで雨宮処凛とかに言及しないのは何故なんだろうと思いました。また、サブカルというよりオタクである身の私的な関心に過ぎないかもしれませんが、戸川純の後に江戸アケミと椎名林檎ではなくALI PROJECTやSound Horizonが続く方面のことを考えたくなる。
【荒岸】本書は他の批評と接続しにくいところがあると思いました。良いところにも悪いところにもなりうると思うんですけど。
【江永】それはそうですね。
【荒岸】例えば雨宮処凛とか赤木智弘あたりのロスジェネ論壇みたいなところって『ストリートの思想』の中でも、若干の違和感は表明されつつも取り上げられていたんですけど、本書はそのあたりには言及しない。かといってサブカルの内面性とかを扱っているのにゼロ年代批評とも接続しない。多少の参照はあるとはいえ。江戸アケミの語られ方も『ストリートの思想』のものと少し違っていて。『ストリートの思想』では江戸アケミの作った「場」とか音楽的なリズムとか、社会運動に割と接続しやすいところをピックアップしているのに対して、課題本では江戸アケミの精神性や内面について注目している。そう考えると確かに違うことはやっているんですけど、でも政治を主題に置くのであれば、やはりカルスタとかロスジェネ論壇ともう少し接続させてもよかったんじゃないかなと思ってしまいます。
【秋好】実はこの本って社会批評じゃないと思うんですよ。結局TVODにとって一番何が問題かっていうと、それは自意識の問題で。だからこれは文芸批評なんじゃないかなと思うんです。そうするとカルスタなどとは繋げにくいのかなと。
【池堂】カルスタをやろうとはしていないというのはありますね。
【荒岸】そうなんですけど、でも一方でゼロ年代批評とも繋がらないのは何故なんでしょう。
【秋好】ゼロ年代批評って、結局批評の伝統であった文芸批評が退潮して、社会学が優勢となった90年代批評を土台にしているというか。
【江永】ファンのエモ語りとプラットフォームをめぐる社会評論をつなげる夢がゼロ年代批評だった気もしますが、結局夢破れ、分裂して影響力を失ったという扱いになるのかなと思います。
【荒岸】うーんそうですね、TVODの二人とも大塚英志の影響を受けていると話していますが、ポケモンじゃないですけど、何のいしを使うかで進化の仕方が違うみたいな話なのかな。
【江永】TVODは大塚英志とか宮台真司にも触れてますけど、「批評空間」周りの話は、そこまで出てこない。ゼロ年代批評などは、それとの差異化を凄く意識していたはずだったけど。
【池堂】意図して遠ざかろうとしているような感じもあります。
【江永】ストリートの思想みたいな話にもゼロ年代批評みたいな話も丸乗りしないけれど、音楽雑誌圏の批評の語り方でもない気がする。だから変と言えば変だし、あまり類例のない立場になっている気がします。
【池堂】そういう姿勢が、本書を面白くもしていると思うんですよね。
【荒岸】『ストリートの思想』と『ニッポンの思想』のちょうど中間に位置するという感じはしますね。僕自身はそのどちらにもシンパシーみたいなものを抱いていたので、そういう視点だとどっちつかずに見えてしまうのかもしれません。
【池堂】こういう姿勢を取ることによって、「政治とサブカル」という文脈を、今まで届いていない人達に届けようとしたのかな。
【秋好】僕はこの本を擁護するんですけど、僕自身はカルスタそのものにあまりリアリティを感じないというのがまずあって。一方ゼロ年代批評で扱われる題材もそこまでディープに通ってきていない。そういう意味で、この本の題材は僕が触れてきたものに近くて、その上で自意識と政治との距離という観点で語っているところにリアリティを感じました。個人的なものか、世代的な感覚なのかは分からないんですけど。
【池堂】取り上げられている名前を見ただけで、アガる人はアガるんですよね。これがサブカルの王道というものなのかは置いたとしても。
【江永】ゼロ年代批評の話で言うと、アイドル批評を取り込もうとしたときにうまくいかなかったというのが夢の破産というか、分裂の一因なのかなと思っています。村上裕一『ゴーストの条件』では「アイドルと天皇」という論点もあったりしたんですけど。今日のアイドル論などにうまく引き継がれた感触は個人的には薄いです。コンテンツや制度だけではなく、アイドル自身やファンたちの行状や人格自体が批評対象になっていってしまったのも、話を続けるのを難しくしたのだと思うんですが。
【荒岸】ゼロ年代批評的に語られるAKB系のシステム論とかは、本書の中で批判的に語られていますもんね。
【秋好】ゼロ年代批評は音楽批評をあまり拾えなかったんですよね。本書は東浩紀辺りも参照してますし、今まで拾えていなかったところを回収しようとしている感じはあります。
【江永】そういう意味ではこの本は今まで届かなかったところに手を伸ばそうとしていると思います。
【荒岸】そう指摘されるとそうですね、距離を取ったことで見えてくるものもあったのかな。
【秋好】個人的なサブカル認識は、元々メインカルチャーに対するアンチとしてのサブ(=アングラ、ポップ)カルチャーだったものが、メインの失墜とともに政治性を失ったものがサブカルで、80年代以降はその領域によって(あるいはネアカ/ネクラ、スキゾ/パラノといったイメージによって)サブカル/オタクに分裂した(ように見える)、という感じです。だから、サブカルの中でのメジャー/マイナーは成立するし、そもそもサブカルチャーが消費文化に呑み込まれた形態が「サブカル」なんじゃないでしょうか。その中でいかに政治性にリーチするか、というのが本のテーマ。とはいえTVODの二人が今の資本主義社会そのものをどのように考えているのか、彼らにとっての政治とは何なのかは、確かに本書の中だけでは分からない部分があるというのには同意します。
【池堂】後半は特にそうした消費文化に呑み込まれた形の「サブカル」と自意識の問題、ホモソーシャルの問題について語られているように思います。とにかく「今までのやり方を続けていたら駄目なんだ」という感覚が本書には強く流れていると感じました。

《末尾の膨大な年表について》
【江永】あとこの本で思ったんですけど、最後の年表がすごいですよね。
【池堂】分量がめちゃくちゃあってびっくりしました。
【秋好】「あれ、もうエピローグなのにまだこんなにページあるんだ」と思ってたら、そこから全部年表だったっていう。
【荒岸】年表もすごいんですけど、本編でそれが全然言及されないのは何故なのかなと思いました。
【秋好】年表の内容が網羅的過ぎて、本編とほとんど関係ない出来事まで載っているんですよね。
【池堂】これ、例えば『ひぐらしのなく頃に 鬼隠し編』コミケ出展、みたいなのも載ってたりしますけど。どういう基準で出来事を選んでいるんでしょう。
【荒岸】年表が二段になっていて、上が「政治・経済・社会の動き」、下が「サブカルチャーと思想」と分かれていますけど、上はいくつかの出来事が太字になって強調されているのに対し、下は全く太字がないんですよね。通常、サブカル批評の付録だったらこれを逆にする気がするんですけど。しかも上の年表で太字になっている出来事の基準もよくわからない。選挙系は全部太字にしてるのかな。
【池堂】確かに、太字にされているのは全部重要な出来事とは思いますけど、基準は分からないですね。そう考えると、やはり年表に対する二人のコメントが全くないのは気になりますね。【荒岸】労力がかかっていそうなのに。
【秋好】今見直してますけど、この年表の方が本編のそれより「サブカル」っぽさがありますね。
【江永】評価基準を設けるのが難しいから、できるだけ網羅的にしようとしたのかもしれないですね。
【池堂】なんというか、こういう年表を実際作ってみたいという気持ちは確かにあります。本当のねらいは分からないですけど、「やってみたかった」ということだったら、自分はそれで納得しちゃいます。最後の2019年のページとか、これ全部Twitterで見たなってなりました。
【秋好】いろいろ懐かしい感じになりますね。とくにここ数年は話題の消費スピードが早すぎるし。

(池堂注:その後パンス氏は『年表・サブカルチャーと社会の50年 1968-2020〈完全版〉』を300部限定で出版。B1判ポスター4枚組という異様な物量、迫力に圧倒されるとともに、個人的には強く感銘を受けました)

第1章 カウンターカルチャーからサブカルチャーへ

【池堂】ここまでも課題本全体を通して、色々とトピックを取り上げて話をしてきたんですが、章ごとの話もしていきたいということで、改めて頭から行きましょうか。
【江永】第1章でなるほどなと思ったのが、戦後文学の話だと占領期からどうやってもう一度ナショナリズムへ持って行くかというところで、「日本再発見」という形で川端康成あたりが良い感じでプッシュされて、観光業界は国内旅行を推すみたいな、そういう話をしたりするんですけど。それと対応しているなと思って膝を打ったんですね。一番初めに取り上げられるのが矢沢永吉ですけど、これをさらに遡ったら例えば石原裕次郎あたりの名前が出てくるような気がします。
【秋好】1970年ごろまでは「敗戦」をどう日本の言論空間の中で処理するか、という問題をポップカルチャーにおいてもやっている。その中で石原とか三島とかが「遅れてきた戦前・戦中派」みたいな感じで活動していたんですよね。
【江永】確かに『ポスト・サブカル焼け跡派』は三島由紀夫が死んでからの話なんですね。
【秋好】だから「政治の時代」が終わった地点から始まっているんですよね。
【江永】一方で三島って、同時代的には『平凡パンチ』とかに顔が載るような人でもあった。椎根和『平凡パンチの三島由紀夫』で、ユングとか阿頼耶識とかの話を三島が皿を使って図解しながら熱弁していたらその場にいた澁澤龍彦に皿屋敷ですか、って茶化されて周囲に笑われた話があって印象深いんですが、「三島由紀夫vs.東大全共闘」みたいな枠組みでは抜けてしまいそうな消費文化的なポップなものとのつながりが三島にある。空飛ぶ円盤研究会だって入っていたわけで。それで円盤見れなかったから『美しい星』を書いたなんて言う作者語りもあったはずです。

【秋好】そういう意味で野坂昭如とかとポジション的には近いんですね。
【江永】だったんですけど、三島事件を起こして亡くなってしまう。
【秋好】やっぱりそれも「メタ」から「ベタ」へ、っていうことですね。
【江永】三島とのつながりで石原の話も。石原は自分と三島を差異化しようとしていますが、『太陽の季節』も当時のサブカルの話にひきつけられなくもない。カウンターカルチャーと呼ぶには……という評価だった若者文化の話なわけですよね。同時代にはアメリカ占領を背景にした植民地文学扱いすらされている。映画化された時には消費文化という話からさらに一歩踏み込んで、アメリカと日本の関係性を描く方向に寄せられている、みたいな議論もあるようです。
【秋好】サブカルをそこに結び付けるとすると、石原慎太郎などとほぼ同時期には松本清張もいて、「社会派」ミステリを駆動しているのが目を惹きますね。
【江永】そうですね、そういう意味では本書と「政治の時代」的なものとのつながりというのは確かにある。
【秋好】アメリカとの距離感という問題は続いているわけですよね、ずっと。その中で矢沢永吉はいかにも50年代のアメリカ的な要素を記号的に、ねじれとか屈折みたいなものもなく纏うことができたから、キャラクターとして世に出ることになった。
【池堂】本書で取り上げられる以前の状況がつながってくるとまた面白いですね。そして矢沢永吉の章で重要なのはやはり『成りあがり』の編集者として糸井重里の存在が浮かび上がるところだと思います。
【秋好】本書の流れとしては、この後も糸井重里の存在は影のようについてまわりますね。ロックを道具として「成りあがる」感覚は後の章のKREVAとかにもつながっていきますし。
【江永】音楽で一発当てる夢が見れる時代の始まりだったんですね。
【池堂】この当時は音楽で夢が見れたんですけど、今はそうもいかないですよね。一発当てたい今の若者は起業に向かうとも聞いたりします。あるいはインフルエンサーに夢を託しているのか。
【江永】起業家か、実況配信者ですね。
【秋好】本書には何度も「セゾン文化」が出てきますけど、文化資本の積み重ねがなくなってきてしまっているともいえるのかな。一度流れが切れてしまったから、音楽カルチャーに対し夢を見れなくなってきているという。
【江永】「成りあがり」自体は今も一応あるんですよね。例えば大正期だったら、小説で一発当てれば若者は夢が見れたらしい。昭和期というか戦後ですけど、石原慎太郎も映画会社に就職が決まったけど、小説で賞を取ったからすぐ辞めたと語られている。兄弟でメディアミックスしてコンテンツ産業でのしあがっていくスーパーマルチメディアクリエイターだったとも言える。
【秋好】成りあがりの道具として70年代はそれが音楽だったのが、80年代からは芸人になった感じがしていて。
【荒岸】文化というか、システムの問題のようには思いますね。
【秋好】そうですね、その当時のシステムと関わっている。道具を使う人が増えると段々飽和していくんですよね。それで次の何かに移行する。最近の時代に引き付けると、成りあがりの道具は10年位前からYouTubeになってきて、それもまた飽和してきている。
【江永】プラットフォームの中でインフルエンサーとかクリエイターとして成り上がる夢はずっとあるわけですね。
【池堂】また別の流れとして、起業はずっとありますね。プラットフォームを作る側ということもできるか。国内のある種キッチュな経営者だと、ゼロ年代はホリエモンとか、それ以前だと「マネーの虎」? ただ起業は実際のところハードルが高くて、失敗した時のリスクも大きい。失敗できる環境がそもそもある恵まれた人でないとチャレンジが難しいんですが、そういう意味ではYouTube、Instagram、TikTokその他は一発逆転感がまだありますね。一方でYouTuberが今の子供たちにとって、既にそこまで憧れの職業でもなくなってきているという話も前見ましたね。ヒカキンだって編集作業ですごく苦労している。だから決していいものでもない、みたいに思われているという。結局じゃあ、夢って今何なんだろうという感じになってきますが(2021年6月に話題になった中国の『寝そべり族』の話のように、国内外問わず『夢』を見るための『競争』自体に希望が持てなくなりつつある現状が広まっているのかもしれません)。

【江永】情報商材詐欺みたいなので一発当てた中学生のニュースとかありましたね。
【荒岸】詐欺で一発当てるって言わないでしょ。
【江永】そうでした。それはともかく、矢沢永吉と第2章のビートたけし、どちらも成りあがりの話なんですよね。そうやってつながっていく。
【秋好】そうですね、80年代の精神性というものをビートたけしが体現している。あと章立てはされてないけど何回も言及されている、タモリの存在も大きいですよね。お笑い芸人が時代を表象している。
【江永】沢田研二の章の中でタモリが「あらゆる意味を無効化して、すべてを記号として弄ぶ」(P27)感覚で世に出て行ったことが言われていて、そういう感覚がメジャーになっていったという流れで坂本龍一が出てくる。
【池堂】秋好さんは沢田研二を前から聴いていたということですが、本書での言及のされ方については実際どう思いますか?
【秋好】おおむね一般的な「ジュリー」認識を踏襲していたんじゃないですか。例えば、70年代前半の沢田研二はパッとしないという書き方がされていましたが、特にソロデビュー初期はショーケンとツインボーカルで活動していたPYGの形骸化から始まっているのもあって、当人の意識としても試行錯誤していたのではないかなと。と言っても、早川タケジがアートディレクションを担当するようになってから全体的に洗練されて、「危険なふたり」とか「時の過ぎゆくままに」とかヒット曲もあるんですけどね。それが70年代後半、「さよならをいう気もない」の金キャミソールあたりから過剰な、コスプレ的な方向に突き進むようになり、実際それでまたヒットを連発するようになった。個人的に不思議なのは、82年の「6番目のユ・ウ・ウ・ツ」を最後に『ザ・ベストテン』のランキングから遠ざかって、セールスが低迷していくこと。僕もリアルタイムじゃないから、当時の雰囲気とか全然分からないんですけど。

【池堂】何故なんでしょうかね、単純に飽きられたということなのか。
【秋好】うーん、ジュリーは48年生まれの団塊世代で、83年には35歳なんですよ。この「35」というところで、世代が一周したといえるのかもしれない。70年代の新御三家は55年生まれで、この時点で7つ年下なんですけど、そことも同時期に活動していた。80年代に出てきたたのきんトリオとか松田聖子とか、花の82年組とかみんな60年代生まれだから、ジュリーとは12歳以上離れている。とんねるずやチェッカーズもそうですね。
【池堂】世代交代ということなんでしょうが、すごく一気に変わるものなんですね。
【秋好】あとは「キャラクター化」が世間的に一般化して、特別なものじゃなくなったという部分も確かにあるかもしれない。一億総セルフプロデュース時代。
【池堂】70年代後半にはハーケンクロイツを付けた衣装でパフォーマンスしてたみたいな話も出てきますけど、衣装に特に意味を持たせないという感覚は一方でその後の椎名林檎とか水曜日のカンパネラとかに受け継がれているんですね。世代交代はしたけど断絶ではなかった。
【秋好】本書にも言及がありますが、78年に「サムライ」でハーケンクロイツを付けてテレビに出て怒られるという事件があって。当時炎上という言葉は使われていませんけど、多くの批判が来たらしいですね。
【池堂】ちゃんと怒られて、ちゃんと辞めている感じが、現代の「炎上」とは性質が違うなという印象を抱きます。
【荒岸】ナチスの格好してたのって、欅坂でしたっけ?
【池堂】それありましたね。
【秋好】ナチスの制服みたいな衣装を着て炎上してましたね。
【池堂】ナチス的意匠を雑に扱って炎上するのってもはやベタな領域だし面白くもないんですが、何か今後も定期的に出てきそうな感じがします。
【秋好】あと、80年の『TOKIO』の衣装がその後『ひょうきん族』でタケちゃんマンの衣装にパロられた事実などは、80年代に芸人の存在感が大きくなって、「一発当てる」の道具が音楽からお笑いへと変わっていくのにも通じるような。考えてみると、東京を「TOKIO」と読み替えるのも、区役所通り→公園通り、パルコ近くの坂→スペイン坂と読み替える、セゾン文化的な動きとパラレルともいえますね。『TOKIO』は糸井重里が歌詞を書いていますが、時代の読みがあまりにも的確な気がします。

【池堂】東京を「TOKIO」と呼ぶ、という流れでYMOにもなりますね。この章のラストが坂本龍一になるわけですけど。そしてここでも糸井重里が出てくる。
【秋好】糸井重里はずーっといるんだよね。
【荒岸】消費社会の権化。
【秋好】中核派から出てきてこうなるってすごいですよね。
【池堂】坂本龍一も学生運動には参加していたけれど、それをやめて大学に入って、「俺は内側から変えるんだ」と周囲に言っていたというエピソードが本書でも取り上げられている。その後は「千のナイフ」で毛沢東語録を読み上げたりしているわけですが。それでも世間的にはアイドル的、記号的な消費をされていく過程が描かれています。
【江永】コムデギャルソン論争とかもありましたよね。
【池堂】その論争に糸井重里も後年コメントしているんですね。まとめ方がらしすぎますが。

きっと、埴谷さんとしては、「吉本はおしゃれじゃないところがよかったのに、コム・デ・ギャルソンを着たらけっこう、似合ってるなぁ」ということだったのでしょう。
https://www.1101.com/nabebuta/2008-09-24.html

【池堂】当時あったのがパンク・ノイズ中心の「吉祥寺マイナー」的な流れと「YMO・セゾン文化」的な流れの二つで、政治的なものから離脱するという点においては共通していたけれど、前者は「討ち死に覚悟で孤独を徹底するやり方」、後者は「戦略的に忘却するやり方」を取ったと論じられている。坂本龍一からの流れで出てくるこの箇所を読んで思ったんですが、前者のやり方をずっと突き詰めていくと最終的には本当に死んでしまうんですよね。そうでなくても様々な理由で表現活動を続けられなくなったりする。なんというか「死んでもいいから孤独な戦いを続けろ」って、他人に言えたりは出来ないよなと思ってしまうんですよね、自分自身は。それこそ「吉祥寺マイナー」側の表現者だったPhewが今になってさらに精力的な活動をしていますけど、当然そんな例ばかりじゃない。死なない程度に長く表現活動を続けて、しかも世間にある程度影響力を保てるくらいには知名度もあって、それでかつ政治的な態度を「戦略的に忘却」しないやり方があったのなら、自分としてはそれが理想だと思ったんですが、こうして言ってみると困難な道にも思える。でもそれがなぜ困難な道になっているのか、困難にさせているのは、あるいは見えさせているのは何なんだ、ということについて著者の二人は考えているように思います。これは先の章でも自分は基本的にそういう視点で読んでいました。

第2章 消費空間の完成、ジャパン・アズ・ナンバーワン

【江永】こういった第1章の流れをすべて包括した存在として、次の章の頭に出てくる名前がビートたけしなんですよね。
【池堂】第1章の最後にビートたけしの名前が出てきたところは正直アガりました。かなりDJ的なつなぎ方じゃないですか。パンスさんが実際にDJをしていることも本の流れに影響があるんでしょうか。
【荒岸】唯一本職の音楽家ではない中で、章立てされているのは気になります。とはいえ、そもそもなぜ音楽縛りでないといけないのかという問題もあるんですが。
【江永】サブカルを語るときに芸人には触れないといけないけど、それをし始めると収拾がつかなくなってしまうからビートたけしに絞ったということはありそうですね。
【池堂】音楽と芸人で繋げるならわかりやすくとんねるずとか、ダウンタウンでもいいかもしれないところで、ビートたけしなんですよね。そこには「ラジオ」という文脈がある。ビートたけしから電気グルーヴに受け継がれていく流れを見出だしているんですね。
【秋好】とんねるずに行くと秋元康(と後藤次利)になるし、ダウンタウンと音楽という話になると坂本龍一になったりということで、他の章と内容がかぶってしまうかもしれない。
【池堂】あとは小室哲哉もですかね。
【秋好】そういえば小室哲哉は本書に出てこないですね。
【荒岸】サブカルというくくりでは名前が出てこない印象です。
【秋好】TRFも元は「TK RAVE FACTORY」ということで、レイヴカルチャーを日本に導入するという思想があったんですよね。あれが本当にレイヴなのかという議論は置くにしても。
【池堂】ダンスミュージックを日本に定着させることを意識的にやっていた。
【秋好】表が小室哲哉で、裏が第2章で名前の挙がる電気グルーヴという感じがします。「リスナーの耳を教育した」という点において。
【池堂】「テクノ専門学校」とか「WIRE」とか、石野卓球は精力的に動いていますよね。小室哲哉とはまた違うやり方で。
【江永】本章で言うと戸川純という、「オトコノコ」に対する女性側の視点、という話がここから出てきます。サブカルの文脈の中で「メンヘラ女子カルチャー」をやろうとすると、「愛国ママカルチャー」にも接続され得るという話が理解できました(自分の念頭に一番強くあるのはGARNET CROWのメンバーの一人が解散後に極右団体に参加したというネットの曝し文書なのですが)。ゲルニカ時代にフィーチャーしていた「大正ロマン」、これって寺山修司とか、ああいう「わざと持ってきた土着の日本文化」と言えるものに近いというか。寺山修司って戯曲でもわざと大正何十年とか言って、昭和がまだ来ていない、大正がずっと続いているような演出をしていたりする。本書では中心に扱われていない方のサブカルという感じですよね。60年代の雰囲気。澁澤龍彦とかの名前が出てきたりするような。アングラ演劇や暗黒舞踏なども入ると思う。そういった文化が引き継がれる、その過程で土着性が抜け落ちていった感じ。ある種の「少女文化」としてそういったものが息づいていったんだと読みました。例えば椎名林檎であり、ALI PROJECTであり、千本桜などのボカロ曲(後者ふたつは私のこだわりで、本書の話題ではないですが)。
【池堂】本書ではその後の、90年代の戸川純についても言及されています。その頃はより精神的に追い詰められたような表現活動をしている。

【江永】「メンヘラ」を表現するのではなく現に生きてしまうことになる。
【池堂】ではなぜそうなってしまったのか、いや、90年代以降の活動も非常に印象的なんですけれど。ただ事実としてはテレビ的な意味での「表舞台」からは姿を消したんですよね。そこには社会との軋轢があったと。「ビョーキ」を演じる戦略が、90年代以降の社会情勢を受けてシャレとして通じなくなってしまったとコメカさんは書いていました。戸川純の章で出てくる話は本書の後半、椎名林檎や大森靖子などの章にも繋がっていくわけですけれど、ここにも「表現活動を如何にして続けるか?」という問題意識が見えるように思います。孤独な戦いを続けて自壊するか、自分を曲げるか失くすかして社会の中で生き延びるのか。或いは別の道があるのか。「私の中にある価値観ってすごい普通」と椎名林檎は言うわけですけど(P150)。
【江永】本書は「少女文化」を祭り上げるということをせず、丁寧に論じようとしている。
【池堂】あとは当事者からの語りを読んでみたいですね。あの頃リアルタイムで受容していた人にとって、どういう存在だったか。第3章のX JAPANとかでも思いましたが。
【秋好】「戸川純さんのファンは、みんなトガワ・ジュンしてた」という岡崎京子の発言が取り上げられていましたけど、本当にそういう人達だけが支えていたのかな、というのは気になります。そのあたりはなかなか見えてこないですね。
【池堂】音楽的な志向を追っていた人達はいたかと思います。パンク・ニューウェーヴの文脈ですよね。当時平沢進と番組で対談したりしていましたけど。ゲルニカのプロデュースは細野晴臣ですし。あとは少女文化とはまた別の括りの「新人類」文化としての受容があったんですかね。当時の雑誌を読めという話なんですが。
【秋好】もう少し開けた存在ではあったんですよね。『いいとも』に出たりとか。
【池堂】「男はつらいよ」とか「釣りバカ日誌」に出演してますからね。
【秋好】戸川純と松田聖子の比較の話が本書にあって、それが面白かったんですけど。ある種80年代のアイドル文化の中で、表のアイドルの記号性みたいなものを突き詰めたのが松田聖子で、その逆で「女性性」なり、自意識の表出といったところに行ったのが戸川純、その中間で女性性の客観視を行っていたのが小泉今日子だった。そこに耐えられなくなっていったのが岡田有希子、みたいな整理ができる。
【江永】私はALI PROJECTが影響を受けたという話を聞いて戸川純の存在を知ったんですよね。あとはBiSが戸川純の曲をカバーしてたとかで。
【秋好】本書でも引用されてる『ギャルと不思議ちゃん論―女の子たちの三十年戦争』(著:松谷創一郎)では「不思議ちゃんの系譜」について語られていましたが、戸川純が「不思議ちゃん」というキッチュな部分と、女性性における身体性の強調なりメンヘラといった部分を両方持っていたのが、90年代に分裂して、一方では椎名林檎、もう一方では篠原ともえあたりに引き継がれていくんですよね。それが2010年代になると、またミスiD周りなんかで……。
【江永】両方の側面がまた合流してくるんですね。
【秋好】そういうイメージがあります。他に戸川純的な立ち位置でいうと、後藤まりこの存在もありましたね。
【江永】なるほど、『惡の華』のアニメOPで聴いてました。神聖かまってちゃんのことも思い出します。あと、注で出ているので言及すると、大槻ケンジの存在もありますね。
【秋好】大槻ケンジは章立てされていても良いような気がしますね。
【池堂】そうですね、ただあえて注意深くここからは外したのかもしれないですが。
【江永】私は大槻ケンジはアニソンから知りました。『NHKにようこそ!』の「踊る赤ちゃん人間」とか。『絶望先生』もそうですね。それ以前の筋肉少女帯の頃の音源などは全然聴いていなくて。
【秋好】自分は綾辻行人さんと対談しているので初めて知りました(『セッション綾辻行人対談集』所収)。
【江永】大槻ケンヂって位置付け難しそうですね。いろんなところにいて、ハブみたいな役割をしている。
【荒岸】いわゆる「サブカルチャー」と「オタクカルチャー」と「サブカル」というのを区別するなら、そのどれにでも位置することができる人なのかもしれない。
【秋好】結節点と呼べる存在かもしれませんね。
【江永】あとは陰謀論カルチャーとかオカルトもこの人はカバーしている。
【荒岸】90年代的な。
【江永】ちょうどノストラダムスの大予言ブームのクライマックスの頃。
【池堂】自分とか荒岸くんとかは物心がつく前後くらいの頃なので当時の空気感は分からないですが、そこも含めると大きな影響力があるんですね。サブカルとオカルトとの親和性。
【秋好】オカルトの源流にはニューエイジがあって、そのニューエイジの広まりは60年代頃からだから。
【江永】大槻ケンヂの『リンゴもぎれビーム!』は宗教団体化したUFO研究会の起こした事件がタイトルの下敷きだけど、三島の空飛ぶ円盤研究会の話とか、あと石原慎太郎もネッシー探しに行ってるし。そういう感じで地続きですよね。新左翼に思想的影響を与えたけれどロハスというよりもっと急進的なエコとスピリチュアルの思想を経て今日では陰謀論者として名が残っている太田竜の話とかも重ねていいのかもしれない。カウンターカルチャーを伝統宗教により親和的にものとしてオカルトを考えたり、カウンターカルチャーを消費社会により親和的にしたものとしてサブカルを考えたりできるのかもしれない。
【秋好】そもそも両者は同じところから出発しているというところがある。
【荒岸】去年(2019年)は『天気の子』がありましたしね。
【池堂】それもありましたね。
【荒岸】あれもムーですから。こないだオカルト好きの後輩が、『天気の子』が流行ってからムーTシャツを着れなくなったって話してて面白かったです。
【池堂】江戸アケミの章は先ほど触れてはいましたが、他には何かありますか?
【秋好】ある意味では、ここが一番話すことないかもしれない。
【池堂】この章がもしかしたら自分は一番好きかもなんですが、でも確かにそういうところはありますね。
【江永】一応この章でオカルトの文脈が出てくるんですよね。
【秋好】ここで大槻ケンジが来ても良いのかもしれませんね。思い入れとかを外して並べてみるとすると、戸川純の次に大槻ケンジが来るというのは自然に感じる。
【池堂】ここでRADWIMPSの「HINOMARU」が出てくるんですよね。
【荒岸】あ、その話もう出てくるんだ、とは思いました。
【秋好】確かに。
【荒岸】BUMP OF CHICKENが第4章では出てくるわけですが、「HINOMARU」も含めたその後の流れとかを踏まえるとここはRADWIMPSでも良いのかなとは思いました。
【池堂】本書でも言及はかなりされていますが、確かに章立てにはなっていないんですね。
【秋好】ただ僕の場合、荒岸くんとは歳が4つ離れているのもあると思うけど、僕はここに配置するならRADよりバンプだなというイメージです。
【荒岸】自分は中学の頃に邦ロックを聴き始めたので、それがだいたい2010年前後。バンプは「orbital period」、RADは「アルトコロニ―の定理」を出した頃くらい。影響関係とか気にせず、RADとバンプはもうフラットに聴いていたからこう思うのかもしれません。ただ、RADは新海誠とタッグを組む前からバンプ以上にセカイ系的な曲を作っていると思うのですが。
【池堂】RADが大衆的に存在感を増してきたのは本当にここ数年というイメージはあります。それまではオルタナティブなバンドのうちの一つという認識で。
【秋好】以前からメジャーな存在ではあったけど、「前前前世」から超超メジャーアーティストになったという感覚ですね。一方、バンプ2000年代前半からものすごく存在感があった。
【江永】同世代の人とカラオケに行くとなぜかみんな「天体観測」は知っているよね、という前提で入れてくる、みたいな現象には覚えがあります。
【秋好】各自が置かれていた環境、コミュニティーによってもそこは変わるんでしょうけどね。
【荒岸】そうですね、自分の周囲はカラオケで「天体観測」も入れるし「有心論」も入れるという感じでした。
【池堂】自分の場合だと「有心論」はなくて、でも「天体観測」はもちろんのこと「スノースマイル」くらいまでは説明なしに入ってましたね。それもいわゆる〈ジョック〉的立ち位置の人が入れていた。RADを聴いている人もいましたが、音楽好きを自認している人たちばかりだった印象があります。あくまで自分の見ていた世界だけの話なんですが。
【江永】あとバンプは「カルマ」で『テイルズ オブ ジ アビス』の主題歌もやってましたね。その印象も当時強かった。
【秋好】その前年には「sailing day」で『ONE PIECE』映画の主題歌もやっている。
【江永】ワンピースの主題歌となるとかなりメジャーな感じはしますよね。バンプはすごくエンタメ方面にガンガン出ている。いまWikipediaを見ていますが、『君の名は。』以前のRADって、音楽番組のテーマ曲とかはやっているけど、あまり世間的に大きなタイアップはなかったんですね。
【秋好】バンプの場合はいつも良い露出の仕方をしているなあ、という印象でした。大きなタイアップが多くて。「花の名」も『ALWAYS 続・三丁目の夕日』の主題歌ですよね。
【池堂】テレビとかMステには出ないけどすごいバンド、というイメージがあった気がします。そのイメージはこういったところから出てきているんですかね。ゼロ年代はテレビにあえて出ないのがかっこいい、みたいな価値観があったという認識です。
【秋好】当時はそれまでテレビに出てた人たちも出ない時期でしたね。バンドがテレビと距離を取っていた時代。それが10年代に潮目が変わった。僕はその変化のきっかけとして、サカナクションの存在が大きいのではと思っていて。あとSEKAI NO OWARIですね。
【池堂】Mステ紅白クソ喰らえという風潮でしたけど、それが変わって、別に普通に出てもいいよねという流れになってきたんですね。
【秋好】その流れで結局RADも出るし、バンプも出るし。
【池堂】テレビに対し権威的なイメージがまずあって、それにあえて出ないことがカウンターでかっこいいみたいな価値観があったのが、テレビの権力がだんだん相対化されていったように思われたあたりから、そういったバンドもまたテレビに出るようになったという流れとも取れるし、少しうがった見方をすれば逆張りに逆張りを続けているだけという風にも捉えられるかもしれません。
【荒岸】あとは川谷絵音もですかね。
【秋好】これからを考えるという意味で、第5章のメンバーを選ぶときに川谷絵音があってもいいかもしれませんね。

第3章 リアルと無意識

【秋好】バンプを含めた第4章の話はまた後程するとして、その前の第3章、例えばフリッパーズ・ギターはどうですか?
【池堂】そのあたりは触れた方が本当は良いんでしょうけど。でも正直そんなに聴いてないんですよね……。コーネリアスは2017年の「あなたがいるなら (If You're Here)」とかはすごく好きでした。

【荒岸】僕も全然通ってはこなかったですね……。
【江永】この辺の知識が自分も一番抜けている気がします。
【荒岸】フリッパーズ・ギターという名前に惹かれてギター少年だった中学のころに少し聴いたんですが、80~90年代といったらガチガチに歪ませたギターソロが聴けるものだと思ったらすごくクリーンな音でチャキチャキやっていたから、ガッカリした記憶があります。
【池堂】それはもう仕方ない。
【荒岸】悲しい事故でしたね。
【秋好】そこへのアンチみたいなところがありますからね、フリッパーズ・ギターは。
【荒岸】そうなんですよね。
【池堂】ソフト・ロックとかを参照にしていて、それがまた新鮮ということで、だからやはり入り組んでますよね。後追いだとなかなか当時の雰囲気はわからない。
【秋好】関係ないけど、菅田将暉のラジオに出た米津玄師が「ソフト・ロック」という用語を知らなくて、ちょっと意外でした。
【荒岸】「ソフト・ロック」ってジャンル、あんまり音楽史的に定義づけがされている感じがしないし、確固としたジャンルという感じではないからなのでは、という気もする。
【江永】フリッパーズ・ギターとか電気グルーヴとかでサブカルを語るという感覚が自分の中にはもともと無かったです。自分の場合はケータイ小説とか、ギャルっぽいものを通ったりしていたんですが、だからヴィジュアル系の方にむしろ親和性を覚えています。
【池堂】同じ章に出てくるX JAPANの方ですね。
【江永】私は子供の頃、BOØWYの曲をよく耳にする環境でした。あとはL'Arc〜en〜Cielとか。ラルクあたりってアニソンによく入ってくるんですよね。
【秋好】ヴィジュアル系とアニソンって実は結構つながるんだよね。
【江永】だからそっちの方は触れているんですよね、逆に。
【池堂】本書でもX JAPANは少女文化とのつながりも含めて言及されていますよね。その前には戸川純とかもいて。
【秋好】大槻ケンヂが書いてましたけど、Xはインディーズの頃からすでに神格化されていたらしいですね。僕ら世代だと、ティーンの頃にはヴィジュアル系ブームも終わっていて、リアルタイムだとJanne Da Arcのブレイクなんかが記憶にありますが。
【江永】アニメ『ブラック・ジャック』の主題歌だったんですよね。
【秋好】「月光花」ですね。
【荒岸】あと『鋼の錬金術師』でシドとか。
【秋好】ナイトメアとかね、『DEATH NOTE』アニメ版の主題歌を。
【荒岸】単発的にV系を知っているのはそういうところからでしたね。
【秋好】90年代もPENICILLINが「セクシーコマンドー外伝 すごいよ!!マサルさん」のOPテーマをやったりしてましたよね。あ、「金田一少年の事件簿」のEDテーマもやってた。
【池堂】アニメの主題歌ってやっぱり記憶に残るというか、影響力がありますよね。
【江永】子供にリーチするのはそういうところからですよね。
【池堂】『NARUTO』の主題歌からASIAN KUNG-FU GENERATIONとかサンボマスターとかに出会うみたいな流れもありました。
【江永】未知の音楽との出会いの場で言うと、カラオケとかも自分はありました。若干自分とはトライブ(クラスタ?)の違う人たちがカラオケで入れる曲を、そこで初めてちゃんと聴くみたいな。大げさかもしれないけれどファンダム脳段が文化圏の横断としてあった。自分の場合はアニソンと、月9ドラマと、カラオケで新しい曲を見知る感じでいました。だから自分と全然違うルートで曲に出会って愛好する人たちとやり取りするのが刺激でした。
【池堂】そうですね、ドラマももちろんありますね。それから誰かと行ったカラオケで出会う曲も確かにありました。
【江永】自分が音楽雑誌などに疎い生活だったこともありますが、SNSやWEBマガジンなども(少なくとも自分の周りには)広がってなかった分、人づてとTV越しの比重が大きかった。
【池堂】自分自身は高校生まで誰かとカラオケにはあまり行ってませんでしたが、でもその話は分かるというか、なんならカラオケなんて行かなくても普通にクラスで誰かが休み時間に大声で歌ってましたからね。あるいは小学生の時は遠足でバス移動中にカラオケがあったりとか。
【江永】私が中学の時は湘南乃風を歌う人と「もってけ!セーラーふく」を歌う人がどちらも文化祭の執行委員にいて、打ち上げでみんなでカラオケに行くみたいなことがあったりしました。
【池堂】良い世界じゃないですか。
【江永】そうですね。多様性というのをそういうものとして理解していました。今風だと縦軸の多様性に相当するんでしょうか。

第4章 ネオリベ、セカイ系、右傾化

【秋好】本書ではTVODの二人が「バンプ以降はよく分からなくなった」といったことを話しているんですよね。スーパーカー、Number Girlあたりは聴いていたけど、という。
【荒岸】この辺りにジェネレーションギャップを感じますね。
【秋好】僕らくらいだとバンプ、アジカンあたりの方がよく分かるというか、同時代ですね。それで、この章でやたらと藤原の声の「貧しさ」という話をしているじゃないですか。「文化的教養の欠如」みたいな。ここを読んだときに強く思い出したことがあって、佐藤友哉が『1000の小説とバックベアード』で三島由紀夫賞を受賞した時、選考委員の福田和也や島田雅彦が「貧しい」やら「安い」やらやたらと書いていて、でもそこが切実で良い、みたいな言い方をしてたんですよね。藤原が79年生まれで、佐藤が80年生まれだから同世代。ある種その「貧しさ」というのは何らかのキーワードになるのかな、と。

【池堂】この章を読んでいて、確かに藤原の「声」にフォーカスするのは面白いなと思いました。ただ声が「貧しい」というのはどういうことなんだろうと。
【荒岸】その感覚はよく分からなかったですね。
【池堂】まあ歌い方が切迫している感じ、ということならそうとは思うんですが。
【秋好】声が貧しい、ということ自体はよく分からないけど、それまでの流れから切断されてる、というのは分かりますね。当然いろんな音楽を聴いてきているんでしょうけど、影響源が曲からはあまり見えてこない。
【荒岸】確かに、昔バンプのコピーバンドをやったことがありますが、その経験からも参照点はよく分からなかったですね。やたらオンコード多用したりとか。他のバンドのコピーで身に着けたコードの押さえ方が全然役に立たなかった記憶がある。
【池堂】音楽以外の文化からの影響が強くて、音楽自体からはそれほどでもないということなんでしょうか。それがある一定の視点からは「貧しさ」に見えてくるというような。比較するのがいいのかわかりませんが、佐藤友哉が「貧しい」とされたのは、影響源が文学以外にあったからだとはいえる。藤原にとってはたまたま、本人にとって音楽という形でアウトプットするのが一番やりやすかったというか。ひとりの天才がいた、という話だと単純になってしまいますが。でもそういう人はいますよね、例えば中田ヤスタカとか。
【江永】参照点が分からないで言うと、米津玄師とかもそんな気がします。
【秋好】米津やKANA-BOONになると、Wikipediaの「影響を受けた音楽」の欄にバンプとかアジカンの名前が並ぶようになりますよね。
【池堂】米津とかってそこともまた少し違うというか、影響元がバンプとかアジカンというのもまた意外な印象も受けます。
【荒岸】参照点の変化という話だとむしろロキノン系の方がその感じは強い気がしていて。『ギター・マガジン』か何かで読んだんですが、「影響を受けたギタリストは?」という質問をいろんな人にしていて、ジョン・フルシアンテとかジミヘン、ジェフ・ベックとか、カーク・ハメットとかの名前が挙がるんですけど。その中で印象に残っているのが、10年代に出てきたバンドのギタリストの何人かが9mm Parabellum Bulletの滝善充の名前を挙げていたんですよね。いや、自分自身も滝にはめちゃくちゃ影響を受けているんですが。KANA-BOONあたりのバンドになってくると、あまり洋楽を聴いていないのかな、と思ったりもします。良い悪いとか関係なく。
【秋好】9mm自体も影響を受けたバンドとしてX JAPANの名前を挙げたりしていますね。もちろんメタリカとかも含めていろいろ聴いているでしょうけれど、前世代の人達ならあまり挙げなかったような名前を出しているんですよね。Xも聴くし、THE YELLOW MONKEYとかTHEE MICHELLE GUN ELEPHANTとかも聴いている。日本の90年代ロックの影響が強いですよね。
【江永】個人的に、バンプに関して社会性が無いという話が出た時に、ゲームの話が関連して出ていて。その取り上げられ方には少し気になるところがありました。
【池堂】「ベタで単線的な物語構造」云々のところですね。
【江永】それはゲームなるもののステレオタイプに咎を背負わせすぎというか、言ってしまえば藁人形論法というか、ゲーム有害論の類いなのでは? とも感じてしまい。
【秋好】この二人がそんなにゲームをやってこなかったという感じはあるかもしれませんね。
【池堂】パンスさんは小学生のころゲームを買ってもらえなくて、つらい思いをしていたと書いています。自分も物語的世界観を歌詞に落とし込むこと自体は良いと思いますし、過去にもあってこれからもある表現だとは思うんですけど。
【荒岸】とはいえバンプはそれが露骨でしたね、他のJロックと比べても。
【秋好】『orbital period』に歌詞カードと一体になった絵本?がついていたりとか。
【荒岸】ありましたね、もっと前だと「K」とか「ダンデライオン」とか。童謡的というか。

【秋好】藤原基央以前も当然ながら物語的歌詞を書く人たちは数多いますけど、でもそこにはある種屈折したものがあった。バンプにはそれが無いというのは確かに感じますね。
【池堂】「屈折が無くなっていく過程」というのは確かに本書ではずっと話されていることですよね。バンプの歌詞もその流れに当てはめられるという。
【江永】そうですね、これは自分が短絡的でした。自分が多少なりとも好きなジャンルやコンテンツへの批判を藁人形論法っていって批判するの、要は重箱の隅をつついて自分の好きなコンテンツや属するファンダムの居心地よさを守りたいだけなのでは、という疑念も自分にあって。いつも塩梅が難しい。
【荒岸】でも言いたいことは分かりますよ。またゼロ年代批評の話になっちゃうけど、一方では『ゲーム的リアリズムの誕生』みたいなシステムの話をしているわけで、それに対して「ゲーム=単線的物語」みたいなのはたしかに解像度が低い。
【江永】まあ確かに言及されているのがドラゴンクエストとファイナルファンタジーくらいですから、有名どころのイメージをざっくり持ってきた感じなのだろうと思います。細部の瑕疵や失錯だけを取り上げて発言全体のネガキャンされるのはとても厭な気持になるものだとは自分も身で知ったことがあります。
【荒岸】バンプにも物語的歌詞だけでなく屈折した自意識を歌う曲もあるじゃないですか。わかりやすいものだと「才脳人応援歌」とか。だからそういう意味で「物語的」の一言でまとめてしまっていいのかという気はしなくもないですね。うまく使い分けているのかわからないですけれど。あと「乗車権」や「ハンマーソングと痛みの塔」なんかは物語的に自意識を歌っているような気もするので、二項対立だけで語るのもどうなのかなと。
【秋好】90年代カルチャーを論じる言葉では語れないバンドなのかなと。「単線的」とか「貧しい」とか、「イノセンス」もそうですけど、やや否定的なニュアンスになってしまうというのは、そういうところかもしれない。
【荒岸】一面は間違いなくあてはまるんですけどね、でもそれがすべてでもない。
【秋好】世代という括りでもバンプはなんだか語りにくいですよね。批評的に論じにくいというか。
【池堂】今までの音楽的文脈とは違うものを参照点にしているから、従来的な視点で見ようとすると必要な要素が足りていない、「貧しい」ように見えてしまうということなのかなと思うんですよね。
【秋好】やはり佐藤友哉が文学史やミステリ史ではなく、エヴァとか美少女ゲームとかを参照して書いたのと同じ意味での「貧しさ」なのかな。
【池堂】そういえば本章には中村一義もでてきますよね。佐藤友哉が『水没ピアノ』(2003年)で全編にわたり中村一義の楽曲をフィーチャーしている。バンプの2年前にデビューした中村一義は「90年代的な状況を変える変革者として過剰に扱われてしまったところがある」(P173)と言及されてもいますが、活動はずっと続けていて。2020年の最新作『十』は本当に良い作品です。僕は高校生の時に知って以来ずっと好きなんですけど。本書では、小沢健二と表現に込める意志の方向性は近いものがあったが、重要なのは中村の目線はもっと低かったということだ、と話されていますね。80~90年代のサブカル的世界観からは出てこない歌詞だと。「人並み」であることに対する「祈り」とか、「ロスジェネ的なリアリティ」とも書かれていますが、これは佐藤友哉の感覚にも通じるものだと思います。一方で中村には洋楽、特にビートルズという参照点がありますが、バンプの場合はそれが見えにくい、というところにやはり戻ってくるんですけれど。

【荒岸】個人的な感覚だと、バンプって「サブカル」という感じはあまりしないですね。これは偏見ですが、サブカルのバンドはもっとこうおしゃれなコードトーンをやってそうなイメージ。
【秋好】正直、ロキノン系と言われていたバンドの中に「サブカル」はいないんじゃないかと思っていて。
【荒岸】それは分かります。
【秋好】かといって「オタクカルチャー」というのともなんだか違う気もしますけど。少なくとも「サブカル」ではなかった。
【池堂】バンドカルチャー的なものって、またサブカルともオタクとも違う何か別のものなんでしょうかね。
【秋好】どうなんだろう。難しいけど、バンプがサブカルじゃなかったら、じゃあ何が音楽におけるゼロ年代のサブカルだったのか。
【荒岸】椎名林檎がそこに来そうな感じは、なんとなく分かります。
【江永】椎名林檎から戸川純的な要素を全部抜いたら、浜崎あゆみみたいな感じになりませんか?
【秋好】なるでしょうね。本書でもありましたが、椎名林檎が何を歌っているかというと、結局「ぎゅっとしていてね ダーリン」になる。戸川純が「愛してるって言わなきゃ殺す」と歌うのとはベクトルが違う。
【江永】いろいろな意匠を全部抜いたら、「普通の」というか、純愛っぽいラブソングになるんじゃないかという印象です。
【秋好】浜崎あゆみと共通する、何だろう、後のケータイ小説的メンタリティというか。歌詞だけじゃなく、初期のインタビューなんか読んでもそんな感じがします。
【池堂】実際本人が言っているんですよね。先ほど少し取り上げましたが、「私の中にある価値観ってすごい普通だから、だからプロになっても大丈夫って思ったんです」というインタビュー発言が、本書では紹介されている。
【秋好】そこを客観視できるところがある種、椎名林檎の「らしさ」なのかなとも思います。
【池堂】そうですね、そしてこれはすごいことだなと思います。こんな風に自己分析して、本当にプロとして成功している。
【江永】そういう言い方ってある種、ゼロ年代のオタク批評がやっていたことでもある気がして。90年代までのオタクはスレたことを言うやつだったけど、そういう上の世代のオタクにも理解されない「わたしたち」の感性は、外からだとただ「貧しい」だけに見えるかもしれないけど、これが新しい、普通の、自然な「純愛」で、それを新しい仕方で表現しているんだ、みたいな語りがあった気がします。それを踏まえるとバンプと椎名林檎が並んでいるのは納得感があるのかな、という。
【池堂】表現としては結構通底しているものがあったんですかね。
【秋好】そこへ行くと、散々言及はされているけど独立した章立てはされていない銀杏BOYSはどうなのかな。どちらかというと、本書では少し否定的な書かれ方がされていますが。
【池堂】この時代のサブカルにおけるホモソーシャルの象徴というような語られ方をしている。そして、大森靖子はそれにも寄り添うというか、完全否定も迎合もせずに向かっていくという出方になっていますけど。

【秋好】そうですね、そこにつながってくる。
【池堂】しかし実は銀杏BOYSをあまりしっかり通ってきていないというのがあり。
【秋好】僕も性愛的な要素がちょっと苦手だったんですよね、中学生の頃。「夢で逢えたら」は『くりぃむしちゅーのオールナイトニッポン』のEDテーマだったんでめちゃくちゃ思い入れありますけど。
【荒岸】銀杏BOYSもそうですし、あと青春パンク的なものをあまり通ってこなかった。
【秋好】青春パンクは世代的に言うとまたちょっと上なのかな。ゼロ年代前半くらいですよね。とはいえ、ノスタルジーとして、175Rとかロードオブメジャーを聴くとエモい気持ちになったりはする。
【池堂】そういうのはありますね。自分らの世代になるとそういうのがオレンジレンジあたりになってくるのかな。
【秋好】僕は今もオレンジレンジ好きですよ。

第5章 「孤児」たちの時代へ

【池堂】時代としてはこの章でいよいよ2010年代に入ります。星野源が結構批判的な書かれ方をしていますね。
【荒岸】可能性も限界も同時に内包しているという言い方ですね。
【江永】ここが、なんだろうサブカルとしての、「こじらせ男子」の完成形であり終着点である、みたいな。
【池堂】プロフェッショナルを称揚するんですよね、星野源が。それで音楽面で自身も純粋な高みを目指すという姿勢を示して、小山田圭吾にも連なってくる。それ自体はとても良いこととして、でもそうした道を選ぶまでの過程で見過ごしてきたものは何だったのか、という話。
【荒岸】そこにきて本書刊行後に「うちで踊ろうfeat.安倍晋三」が出てくるという。
【池堂】あの事件に対して星野源本人は積極的に自らの政治的姿勢を表明はしなかったですよね、それでも言及はしていましたけれど。
【秋好】サブカル男子の政治的距離の限界を感じた出来事でした。距離の取り方はあれしかないというか、針に糸を通すような対応の仕方だったんだけど、でも結局そこで政治性を直接は打ち出せないところが。
【江永】「サブカル男子」基準で言うとがんばった対応なんだけど、今のポピュラー的に求められてる水準で言うと十分といえない、という雰囲気だったというか。
【秋好】「うちで踊ろう」が現政権的なものにハックされる可能性はずっとあって、結局その通りにハックされてしまった。
【江永】まったくこれも個人的な話なんですが、星野源「SUN」のMVを初めて視聴した時、ずっと良い印象で観ていたんですが、一番最後に「全部俺の女」というところで本当に引いた記憶があります。
【荒岸】ラジオで星野源がずっと下ネタを話していることも、今年(2020年)のオールナイトニッポンでの岡村隆史の炎上みたいなのに行きついてしまうわけで。「星野源」をどう取り上げるかは、2020年において非常に重要な意味を持つように思います。
【秋好】本書はこの最後の第5章にきて、星野源から秋元康につながって、「こじらせ男子」からアイドルの話、さらにはジェンダーの話題が色濃く出てくるんですよね。その中でパンスさんが「最近、テン年代ワーストランキングを頭のなかで作ってる」(P213) という話を出してきて、峯岸みなみの丸刈り謝罪動画アップ事件に言及している。アイドルというか、一人の女性にああいった「罰」を与えること――それがSMAPの生放送での謝罪とかにも通じていたり、あとはNGT48の暴行被害事件だったり、欅坂46の空中分解といった話ともつながってるように思います。欅坂はいろいろと内紛があって、平手友梨奈も脱退して、最終的には改名して再出発というね……。
【池堂】そうした状況に対し、秋元康が全然責任を取らないと。
【秋好】そう、それで秋元康の倫理観という話が本書でも出てくる。
【池堂】もう今までの秋元康のやり方は至るところに綻びが出てしまっているんですね。
【秋好】AKB的なアイドルの方法論はここ数年で完全に機能しなくなってきている。
【池堂】BiSとかも見てて大丈夫じゃないよなこれ、とか思っていて。自分が存在を知ったのは非常階段とコラボしていた時で、変わったことをするグループがいるんだなと印象的だったんですけれど。でも最近になってなかなか大変な実情があったことも耳に入ってきました。
【秋好】BiSとかだって、特に初期はアイドルに負荷をかけてそれ自体をコンテンツにするという手法ですからね。
【池堂】別に負荷かけなくても非常階段とのコラボはできそうですけどね。
【秋好】全裸MVとかありましたけど、負荷をかけるという部分は単純にある種スキャンダラスな話題で集客を狙うというか、週刊誌に取り上げられるような戦略があったと思います。その流れに非常階段とのコラボもあったんじゃないかと。
【池堂】当時の非常階段は一方でめちゃくちゃコラボしてましたけどね。それこそ初音ミクとか。戸川純もありましたけど。その文脈だとBiSというか、アイドルが非常階段とコラボするのも違和感はなかった。
【秋好】ゆるめるモ!とのコラボは良かったな。
【江永】自分はYouTubeにアップされている有名な曲しか聴いていないんですけど、つんく♂の書いている歌詞とかって結構良い印象を抱くことが多いです。
【秋好】いわゆる秋元的な、本書でいうところの少年センチメンタリズムみたいなものと、つんく♂の詞はだいぶ距離がありますね。
【江永】例えば、『邪魔しないで Here We Go!』は婚約破棄もののなろう小説とか追放もの(今更もう遅い系)とかみたいで、印象に残っています。

【池堂】ZOCが問題を抱えていたとしたらどういった部分だったんでしょうか。
【秋好】初期から脱退していくメンバーへの罵倒みたいな展開はあったような。
【荒岸】全員尖りすぎてるというか、ヤバそうなイメージでしたね。
【江永】尖りと持続可能性がなんとなく相容れないものとしてある。
【荒岸】「自己を肯定する」というコンセプトはとても良いと思うんですが、アナーキーな方向に行ったらシステムとしては崩壊していきますね。
【秋好】ZOCは「孤立した個」をあるがままでそれぞれ認め合い、新しい連帯を作っていくみたいなイメージだと思うんだけど、結局その尖った個はある種キャラクタライズされた自己で、そのまま放置すると互いに衝突してしまう。大森靖子あるいは運営には、当時それをコントロールすることができなかった、ってことなのかな。そうした衝突を仲裁するような存在がいないと、グループとして継続していくのはなかなか難しいですよね。
【江永】不祥事を起こすとすぐ退場、というルールがありましたね。これも少し気になります。
【秋好】問題を起こした者も肯定しないといけないのではないか。
【池堂】肯定しつつもそのルールは最低限設けようということだったのかもしれないですけどね。アイドルとして産業化する上で。自由にやっていいけど、一線を越えたらダメだと。
【荒岸】さっき自分が「アナーキー」という言葉を使ったんですけど、念頭にあったのは大杉栄的なというか栗原康的なアナキズムで、それを目指すべきだったのではないかと思います。栗原・大杉のアナキズムは「相互扶助」が非常に重要視されていたということを言っている。まさに栗原の去年(2019年)話題になった新書『アナキズム』の副題が「一丸となってバラバラに生きろ」じゃないですか。ある種の理想論なんですが、アイドルにそれを求めるのは酷と理解したうえで、理想を追い求める姿を見せるのがアイドルの役割なんだとするならば、これも一つのアイドルの形と言えるのではないかと。

【江永】一方で難しいのは、人がアイドルになる動機って「成りあがり」をめざすためだったりするんですよね。「成りあがり」の集団に相互互助が可能か、という問題もあります。もちろんその動機がすべてということは全くないと思いますが。
【秋好】アイドルってそもそも何か、という話にもなってくるんですよね。
【池堂】むしろアイドルという概念がもっと拡張していくのがいいのかもしれないですね。
【江永】芸人だとEXITの兼近に前科があったみたいな報道もありましたけど、今は問題なく仕事ができている。今後は「前科持ちアイドル」みたいなのも増えていくといいのかな。
【荒岸】アイドルが「たかだか大麻 ガタガタ抜かすな」と歌番組で歌う未来。
【池堂】アイドルという言葉にいろんなものが乗っかってしまって、当事者がそれを背負わされている。「夢を与える職業」みたいな、それも雑な認識ですし、自分に思い入れがないから言えることではあるんですけども、でももっと気楽な存在であってもいいのかもしれません。

焼け跡から見た風景——あとがきにかえて

【池堂】パンスさんが最後「あとがきにかえて」として書いてますけど、この文章が好きでした。
【江永】本編に入れづらかったところに言及している感じがありますね。
【荒岸】僕もこのあとがきは共感できました。
【秋好】ここで本書のテーマが語られるんですよね。
【荒岸】最後にこの文章で韓国からの視点とか、そういう文脈が入ってきて、日本のサブカルを相対化したという感じを受けました。
【秋好】パク・チャヌク監督『お嬢さん』への言及もされてますしね。ここはさすがだなと思いました。パンスさんのWeb上のプロフィールを見ると、「最近は韓国を中心に東アジアの近現代史とポップカルチャーを追う日々」と書いてあります。
【江永】冒頭でも近い話をしましたが、K-POPとか韓国の若者文化からの影響を外したら今の日本のそれは死にますからね。
【池堂】そうですね、むしろ今までが変だったのかもしれない。日本国内だけで語るのが当たり前という感覚は。
【江永】青林堂が刊行していた保守言論雑誌『ジャパニズム』が、今年(2020年)2月に休刊したんですよね。若い世代をターゲットにしてたんですけど。『テコンダー朴』の連載雑誌でもあったり。テン年代のネット右翼の拠点の一つだと思っていたんですが、続かなかった。
【池堂】今の中高生くらいの人たちって、ネトウヨ的な思想には共感しないということですかね。
【江永】今のネトウヨってどちらかというと、年配の方が、文字が上から下に流れる類の動画を見て嵌っていくようなイメージが強くなってきている気がします。
【荒岸】年齢層が上になってきている感じはありますね。
【池堂】一方で今の若者は現状追認の傾向がさらに強くなっていて、現政権支持で保守的というか、政権が変わるのを想像できないみたいなことを言われたりもしますよね。まあそんな簡単な話じゃないということだと思いますけれど。
【荒岸】全体主義と排外主義はまた違いますからね。社会学者の田辺俊介さんが『日本人は右傾化したのか』という本で実証的な社会調査分析をしているのですが、現状は若者の間でめちゃくちゃ排外意識が高まっているというわけではないけど、権威・権力には従順、という結論が述べられていたと思います。
【池堂】なるほど、確かにそこは両立するんですね。
【江永】コロナ禍を機に、例えばオンライン授業だけなのに授業料が据え置きなのはおかしい、みたいな声が多く上がったりもして、いろいろな変化をいま感じています。
【荒岸】一種のカルチャーとしての右翼の存在感は薄くなってきていると思うんですけど、ただ実際経済を中心に回している人達が排外主義的だったらあまり意味ないんじゃないか、という気持ちもあります。ただ、去年くらいにネット記事で読んだんですけど、若者の間で新大久保が今大変盛り上がっていると。その理由の一つとして、本当かどうかは分からないんですが、大人世代に対するカウンターとして韓国文化に触れているんじゃないか、という仮説を立てていて。
【秋好】Netflixでも『梨泰院クラス』と『愛の不時着』が一位と二位を独占して、「第4次韓流ブーム」が流行語大賞にノミネートされたりもしましたよね。J.Y.Parkも注目されたし、言説として韓国嫌悪はいまでも目立つけど、カルチャーの受容とはほとんど関係ないというか。
【池堂】そうですね、一方アマプラでは『コリアタウン殺人事件』が……。
【江永】あれは……。
【池堂】かなり強い偏見も背景にありそうですからね……。(2021年6月現在、 prime videoからは視聴できなくなっている)
【江永】ゼロ年代くらいのネット右翼はカルチャー語りのなかでの反体制やアナーキーを肯定する言説の一定の存在感の反動という側面もあったように思います。先ほどの『ジャパニズム』休刊の話も、サブカルチャーとしてでなく議会政治に進出し始めたという側面があるはずで。先の都知事選でも桜井誠が18万票獲得したこととかが話題でしたけど。
【秋好】『ポスト・サブカル焼け跡派』の初めの方で『ゲンロン4』の浅田彰インタビューが結構引用されてるのを見て、久しぶりに元記事を引っ張り出して読んでみたんです。このインタビューが2016年で、その時も都知事選があったわけですけど、桜井誠が11万票取ったことが話題になってるんですよ。それに対して東浩紀が、「これは前哨戦みたいなもので、これから国政の方にも進出していくんじゃないか」という話をしている。その後桜井誠は日本第一党を作って、今年(2020年)の都知事選で事実また躍進した。
【池堂】この「あとがき」で本書の内容が締まるというか、これまでずっとドメスティックな文脈で話がされていたわけですけど。「東アジア」というもう一つ大きな枠組みを設けた時に「サブカル」がどういう形を取るか、この視点が今までの「サブカル」認識においては十分に持たれていなかったと。
【江永】Moment Joonが1stアルバム『Passport & Garcon』をリリースしたのって2020年3月だから、本書刊行の後なんですよね。本書でいう自意識の話って、男性/女性の二元論的なジェンダーの文脈で語られていて、このあとがきで韓国の話に触れられていますけど、もっとエスニシティの話とかもあってよかったのかもしれないと思いました。アメリカとの距離を考える日本という枠組みでは後景化しがちな要素。

【池堂】ゼロ年代は「男の子/女の子」的な表現が多くて、ある程度時代の中で影響力を持っていたという印象はあります。本書においてエスニシティの概念が薄いのは、そのまま日本のサブカルが作ってきた歴史から来るものなんでしょうね。
【江永】ないものねだりだとは自分も思います。Moment Joonって「エスニシティ+自意識」という感じの表現に思えて、この本の枠組みで語れそうな気がします。
【荒岸】「Passport」という内/外の象徴と、「Garcon」という少年性の象徴ですね。Moment Joon自身が、みんな自分が移民だということに気を取られて「Garcon」の方に触れた自作の批評がないということをTwitterで言っていた気がします。Momentのインタビュー読むとケンドリック・ラマ―の影響の話をよくしていて、卒論は「Good KID, m.A.A.d CITY」におけるストーリーテリングや語りについてだったらしいんですよ。そんな彼にとって「Garcon」という観点が無視されるのは、ケンドリックをコンプトンとか黒人音楽といった「環境」についてしか注目せず、「内面」に触れないようなもんだと思ったんじゃないかなって。あのアルバムもタイトルの通り、ケンドリックの「少年の自意識」が一つのファクターじゃないですか。そういうところは意識していると思う。
【池堂】そういう風に批評を客観視できるのもすごいなと感じます。
【荒岸】そのくらいの客観視が出来ないと、あのアルバムをあそこまできれいな一本の物語として成立させられないんだと思います。
【江永】そこまで自分をセルフコントロールしたからこそ、自分の中での文脈を保持したまま世に出てこられたということでもあるのかもしれない。
【池堂】ここまでのセルフコントロールをしなければならないという、その日本の状況に思考を向けさせる表現。それも「成りあがり」のために体制に迎合し、現状をゆるく追認するための「セルフコントロール」ではなく。表現の形を誰かに曲げられることなく活動を続けていくための、抵抗としての「セルフコントロール」を、そこに見ることができそうです。少しだけ道が見えたような気がします。
あとがきの前の最終章はいうなれば「未来の章」で、そこに誰を配置するかを考えた時、コメカさんは大森靖子を選び、パンスさんは決めかねている。そういう印象を持ったことは初めの方で話しました。「焼け跡」の次の表現者として誰を見出すか、Moment Joonなのか誰なのか(あるいは、自分がそれになるのか)、そこが読者に託された部分だと思います。新宿の酒場でTVODの二人はずっと話し込んでいたわけですけど、今日読書会という形を取ることで、二人の時間を少しだけ追体験したような感覚を得ました。

《おわりに》

2020年の7月に読書会を実施したものの、これが6時間を超えた大ボリュームになってしまい、まず書き起こしに膨大な時間、さらに加筆修正を重ねた結果、気づけばもうすぐ1周年。そのあおりを受け、本文の至る箇所で時間軸に歪みが生じてしまっているかもしれません。可能な限り自然な流れとなるよう調整したつもりですが……、明らかな不備を発見したら修正したいと思います。あるいは記事化に1年掛けることで、その過程において結果的に一つのテーマを長い時間をかけて緩やかに、ときどき思い出しては考え直すことになり、もしかしたらこういうやり方でしか得られないような何らかの意義があるということもできるかもしれません。そんな風に前向きに捉えてみることもしてみたいと思います。
読書会自体はその間にも、幾度か行っていました。今後も何らかの方法で、少しずつどうにか形にしていきたいと考えています。なにとぞよろしくお願いいたします。

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