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映画「寛解の連続」を観ました。

いくつになっても心に共鳴し、響くものが増えるのは良いものだなと思う。

色んな事が重なり偶然が偶然を呼び、想像もしなかったようなところへ誘われ、そこで出会う人や物。
スピリチュアルはよくわからないけれど、誤魔化せない波長なようなもので通じるのだろうなというのは結構素直に思ったりする。

大小かかわらず、何か一つリミッターを外してみたらそこから流れ込んでくるもの。

ほっておいても変わりゆくものもあるが、変えなければ変わらないものもあるし、変えたいと願っても変えられないものもある。
単純なことだ。


何を信じるかは自分次第で良い。
どんな物事の側面にも世界は存在しているが、その総てを知ることはできない。


「寛解の連続」という映画を観た。
同じ神戸市出身でラッパーの小林勝行氏のドキュメンタリー映画だ。
小林勝行という人を私は知らなかったのだが、ラップ好きの従兄が「ええで」といって教えてくれた。
時に息が詰まりそうになるほど心根が優しいその従兄とは、2月に他界した祖母のお通夜で再会した。
私の個展にも遊びに来てくれて、「めっちゃイケてる」と言ってくれた。

小林勝行と検索してみると、コロナで上映延期になっていた映画がちょうど公開になるという情報が出てきた。


私は日本語ラップと出会って、「共感」に頼りすぎない物の見方を培った。
勿論共感があればより深いものや特別なものになるのは確かだ。
けれど、例え共感できなくても心打たれるものも数多くあり、私にとってその共通項は切実さとリアリティだ。

お金がなくても紙とペンだけあれば生み出すことができる世界。
言葉を紡ぐ。伝えたいという想い。
そこにはひたすら自己との対峙がある。
共感に媚びない。信念で勝負している。
共感とは違うベクトルから受け取る、全くの赤の他人の物語。小説みたいなものなのかもしれない。
無知な私は、アングラといえば寺山修司とか昔のヴィレバンみたいなイメージばかりが先行していたが、あちこちに知らない地下世界は存在している。


「寛解の連続」、ここにも初めて見るリアリティがあった。
小林勝行はラッパーであり、躁鬱病と闘い、新興宗教の熱心な信者だ。
神戸弁で語られる言葉は聞き馴染みがありすぎて友達の話を聞いているようだった。
かっこ悪くても嘘のない言葉たち。
若い世代の派手なギャングスタラッパーたちがもてはやされヒップホップ旋風を巻き起こしている中、神戸の街の片隅で信念とペンを握りしめ、自分と、言葉と向き合う一人のラッパーの嘘なき物語。
偶然知った、全くの赤の他人の物語。
薄っぺらな共感は右から左へ通り抜けていく。

硬くなった自分の指先を見つめる。

受け止めすぎてしまうということ。
最後に語られた言葉を優しすぎる従兄に共有したくなった。

器用に生きられる人ばかりではない。
不器用な生き方しかできない人だから見える景色というものがあって、それは善し悪しでジャッジされることではない。
こんなことはもう耳にタコだろう。しつこいよなぁ私も。

開き直る気はない。ただ、私は信じている。

何を信じるかは自分次第で良いのだ。





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