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映画と少し仲良くなれた日

いつの間にか11月最後の金曜日が来た。
noteは毎週金曜を更新日と決めたので、毎月4回ほど書いている。
4回と思うと少なく感じるけれど、金曜日が来るたびに「もう来たのか」と思う。

この間久しぶりに観た、映画「百円の恋」についてでも書こうかと思っていたけど、不快感しかないシーンもあったりするので書きづらいな~と思い、
その根底には全然捨てきれない自意識があることに改めて気づいたりもした。


映画が苦手な時期があった。
「一度で全てを理解しなければならない」、更に「その上で具体的な感想を持たなくてはならない」という強迫概念があった。
「理解できない自分はバカなんじゃないか」と思ったり、「理解できなかった」という漠然としたカタマリを前にして「時間やお金が無駄になった」と思ってしまうのが怖かった。
(余談だけれど、時間やお金を無駄にしたくない、というのは沢山の人が抱えている感情で、だからお涙頂戴のものが流行る。と何かで読んだ。)
後から解説や考察を見ては、自分の読み解く力のなさにへこんだりもした。(これは今もする。)

そんな恐怖心を抱えていたので、映画鑑賞への印象は「非常に疲れるもの」だったし、これでは映画を観たいという感情を起こさせる方が難しかった。
幼い頃からこんなことを考えていたわけじゃない。きっと「感受性」というものを言葉として意識し始めるようになってからだと思う。
その上で、人から映画を勧められるようになったりすると、ぺらぺらな感想しか言えない自分でいたくないというような自意識も働いたりするため、恐怖心が募るというサイクルになってしまった。

ただ、「大きなスクリーンと音響設備が整った環境で映画を観る」ということには価値を感じていたので、たまに映画館に行くことはあった。
そして観終わった後には「面白かったな」「可愛かったな」「つまらなかったな」「いい映画だったな」と思えた。本当にぐったりしながら。
だからこそ、もう少し気軽に映画を楽しみたいという願望も強かった。

とある映画を観た時に、ごちゃごちゃと絡まった自分の感情をふっと解いてくれるシーンに出会った。
雄大な地に夕陽が沈んでいくという数秒のシーン。
私はそのシーンの美しさに感動し、「このシーンのためだけにでも、この映画を観てよかった」と感じた。
その映画にとって夕陽のシーンは転調のための数秒というくらいのものだったように思う。
その時、「あ、映畫って、こういう観方でいいのかもしれない」とふと感じた。
物語を完全に理解できなくても、巧妙な考察や唸らせるような感想を述べられなくても、あの夕陽がきれいだった。それでいいんだなぁと。

ごちゃごちゃ絡まった感情を持ってしまっていると、こういう拍子抜けされそうな気付きに至るまですごく遠回りになってしまう。
自分の体感を経て実感しなければ、口でいくら説明されたとしても私の強迫は拭えなかった。
その夕陽の映画が「STAR WARS」だった。

本を読んでいても、思う。
小説の内容がどうというより、私がこの本を読んだのはこのためだったというような一文に出会うことがある。
全てを理解できなくても、そういう感じでいいのだと思った。

映画への強迫概念が払拭されると、世界が開いたような楽しさがあった。
「百円の恋」を観てボクシング映画に興味を持ち、そこから「ロッキー」と「クリード」を観て黒人文化に興味が沸いた。
更に挿入歌のかっこよさに惹かれヒップホップに興味が沸いてくる。黒人のラッパーが自分の大好きな日本のブランドを着たりしていると、おぉ!!と楽しくなってくる。ものすごく遠く無縁だと思っていたものが一気に近くなる。
どこまで深堀するかという興味レベルに差異はあるけれど、知らなかったことに興味を持ち知っていくのは楽しい。
私の口から黒人ラッパーなんていう言葉が出るとおかしみがあるらしいけど、こちとら大真面目だ。
そういう繋がりは、芸術や文芸、宗教、哲学、社会問題、戦争、とどこまでも広がり続けていく。
自分発端のその繋がりをより濃く深いものにするために、世界史を勉強しよう、というように連鎖していった。(個展準備のために世界史は今お休み中)

この感覚で10代20代を過ごせたらどれほどよかったことか・・・。と頭をよぎる。
そしてその後すぐ、その考えはちょっと違うよ、と思い直す。

強い強迫概念から抜け出せなかったことや、知らないものを否定することで何者かになった気になっていた自分がいなければきっと解らなかったし、そんな私だったから意味があった。
遠回りでも、拍子抜けされても、私の立ち位置は今ここだ。

次のnote更新は、もう12月。
2020年は終わりに向かっている。

#映画 #エッセイ  

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