鏡越しの君#2 大事な物

次の日の朝、まるでいつも通りかのように起きて電車に乗り、会社についた。
身体は覚えていて悩むことはなく順調に会社に着いた。
いつもこんな満員電車に乗っているのかと我ながら感心する。

狐につままれた気分で恐る恐る社員証をかざすと、扉が開いた。

「よっ、田渕」
肩を掴まれて振り返ると、男の俺から控えめに言っても爽やかで格好いい男がいた。

「おはよう。矢本」
するりと名前が出てくる。
この奇妙な感じは呼び慣れた名前のようで身体に染み付いていた。

「どこまでいった」
昨日の仲良くなった女の子とのことを言っているのだろう。
「どこまでもいってないって。相変わらず女子の狙いは矢本ばっかりだし。
小山さんも多分、矢本みてたし」
「そうかぁ?」
矢本は俺の方を見て笑った。
「それより、今晩どうだ。飲みに行こう」
手でクイッとお酒を飲む仕草をする。

エレベーターの中で他愛もない話をしていると、どうやら俺は入社して半年くらい経っていたみたいだ。

記憶は混在していて、会社に行っている俺とアルバイトの俺がいる。どちらも夢なんかじゃない。
こうしてどちらも実感があって、アルバイト先の包丁で切った傷が指先に残っている。

頬をつねってみても痛い。
「どうした」
矢本が心配そうに俺の顔を覗き込んだ。

執務室の扉の前に立ったとき、何か嫌な感じがした。胸の奥がつっかえるような胸騒ぎに襲われる。
「行かないのか」
矢本に背中を突かれて、足を進めた。
いつも通り席に着くと、記憶が鮮明に蘇ってきた。
吐き気のようなものに口を押さえる。

これからプレゼンに出て、上司たちに詰められる。
今日行く取引先の人は、俺達のことを舐めていて、とても嫌な奴で憂鬱になる。
そして、帰ってくると部長の文句を聞かされ、今日の仕事の締めをする。

殆ど毎日が残業で、部長が「これ明日までだから確認しておいて」と九時過ぎに言ってくる。

終電で帰れるように急いで目を通して、明日の為に準備をする。
そのくせ残業代は一定以上はつけてはいけない。
所謂ブラック企業というやつだ。

どうしてこんなところに就職したんだろう。
あんなに羨望した就職が無意味なものに感じてきた。

家にいる母さんは優しく心配してくれる。

重い身体を引きずって会社に向かった。自販機で珈琲を買うと、見慣れた顔が近づいてきた。

「疲れてるか。相変わらずの不景気ヅラだな」俺の肩に腕を回して、そう言って笑う。
その笑顔ですらうっとおしく感じた。

「なぁ、矢本。おかしいこと言ってるのは自覚してるんだけどさ。
俺さ別の世界から来たんだよ」
一瞬、キョトンとした表情の矢本は首を傾げた。
「信じてもらえるとは思ってないけど、ここにいる俺はパラレルワールドの俺で」
本当の俺って誰だ。

「何いってるんだよお前。連日の忙しさで頭がおかしくなったんじゃないのか。
ちょっと休んだほうがいいぞ」
エナジードリンクを鞄から取り出して、俺の手に握らせた。
「やっぱりそうだよな」
変なことを言っているのは自覚している。
この生活にも慣れてアルバイトの俺が夢だったんじゃないかとさえ、思ってくる。

自分の席に座ると部長から手招きされた。
「頼もうと思っていたこのプレゼンだけど、君は出来ないから、矢本君に頼もう。
何もしなくていい」
「それは、もう準備が」
部長は手元の資料に目を戻した。
こうなると有無を言わせず上司の言うことに従うしかない。


「はい。かしこまりました」
確かに奴はよく出来る。
俺の隣にいるのがおかしいくらい、いい奴で誰にでも平等に優しく周りに好かれている。
仲が良く彼が評価されると鼻が高い。

その反対に俺は心身ともに壊れていっているのが分かる。
取引先に上司のミスで怒られ、尻拭いをさせられ、上司には嫌味や嫌がらせをされる。
残業は毎日あるし、土曜日や日曜日に急遽出勤させられたり、仕事の電話がかかってくる。

だから、折角の土日でも疲れの為に何もできない。

なんだこれ。

折角手に入れた仕事でお給料ももらえる。
だけど、これでいいのか。
俺の求めていた世界はこれだったのか。

時計を見ると十時を回っている。
この仕事を終わらせておかないと、明日の会議に間に合わない。
首を回すとポキポキと音がした。

「今日も残業ですか」
顔を上げると小山さんが見つめていた。
「あぁ、少し仕事が残っていて」
小山さんは静かで大人しめで、いつも会社の集まりでは一番端にいるタイプだ。
矢本の横にいると殆ど話したことはない。
「ほどほどにしないとですよ」
「ありがとう」

2人きりになれるタイミングは滅多にない。
ここで何かに誘いたい衝動に駆られる。
「今度、ごはんでもどう」
彼女は驚いたように微笑んだ。
「勿論です。また連絡して下さい」
会社にいられるのは矢本と小山さんからの心の支えだけだった。

それから会社で目が合うと微笑んで小さく手を振ってくれる。
小山さんと二人で食事に何度か出掛けた。
「田渕さん流石ですね、いい旦那さんになりそう」と反応は悪くない。
運が向いてきたかもしれない。

仕事をやめようか悩んでそのままズルズルと一年が経過した。

「楽しかったです。ご馳走さまでした」
港の景色の良いレストランで食事を終え、海沿いの町並みを歩いていた。そろそろ腹を決めないと。
月二回ほど、もう一年もデートをしている。
向こうも焦れているかもしれない。

小山さんが笑うとキラリとイヤリングが揺れる。その笑顔が月に照らされて見惚れてしまう。

緊張で喉が渇く。
「小山さんといるとすごく楽しい。
よければ俺と付き合ってもらえませんか」
一瞬、彼女の瞳が揺れた。

彼女の欲しがっていたネックレスを見せると彼女は目を伏せた。
「ごめんなさい。私、付き合ってる人がいるの。だから、気持ちには応えられない。
田渕さんのことは勿論好きだけど、同僚としてなの」
彼女の気まずそうな顔を見て、一気に頭が真っ白になった。

なんとか声を振り絞って言葉を探す。
「そう、気にしないで。彼氏がいるなんて知らなかったから。
俺の方こそごめん。今まで通り話してもらえると嬉しい」
無言のまま、彼女と駅で別れた。

あんなに好意が見えていて、てっきり両想いだと思っていた。
モヤモヤと悔しい気持ちを抱えて家路についた。その日は何も手がつかず、一睡も出来なかった。


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