一年分のお米の保証はベーシックインカムの役割を果たすか?【第三回】ベーシックインカムについて考える。

「ベーシックインカム」をそのまま日本語にすると「基礎収入」です。収入を「お金」と考えると、制度としては現金での支給が前提となり、お米という現物支給やそれに類するものは、もう少し異なったネーミングが必要となりそうです。

さて、ここでは名前や言葉はさておき、ベーシックインカムの目的を「国民の生活の安定」をはかるものとして、現物としてのお米の保証はその目的に資するか、という点について私見を書きます。最初に結論を言うと、

大いに資する

と考えています。

大人一人が一年間、一日三杯のご飯を食べるのに必要なお米の量は150kgとされています。これが伝統的な「一石(いっこく)」という単位です。ちなみに「一俵(いっぴょう)」とは60kgと定義されており、一石=二俵半です。現代日本人は、パンや麺類などもかなり食べているので、一人当たりの年間お米消費量は大体60kgといわれていますね。一俵です。

ちなみに、私は一人で3500~4000kgほどのお米を作っています。大体、二十五石つまり、二十五人分の主食は養えるくらい生産をしているというわけです。

一年間に「一石=150kg」のお米があれば、国民は文字通り「食える」わけです。これを支給することにすれば、最低限の安心は確保できるでしょう。

もらえる条件は、お米150kgを生産するために必要な労働時間分は少なくとも何らかの形で労働する、とするのが筋だと思います。

さてそのためには、一年間に何時間の労働をすればこの安心が手に入るのでしょうか?答えは、一人たった

年8時間

です。詳しい計算は、こちらの記事をご覧ください。

年8時間働けば、全国民がとりあえず「食える」という最低限の生活保証が可能な素晴らしい社会に生きている、ということに気づくとずいぶん気が楽になると思うのですが、いかがでしょうか。

この、全国民が毎日三杯のお米を食べることができるという保証が、たった年8時間の労働で手に入るという非常に安心な社会を作るために、今までの先人たちの膨大な経済成長・経済発展があったと考えるべきでしょう。感謝しかありません。

そして、、、その安心が手に入る今、これ以上の経済成長を目指すべきか?目指すべきなのであれば、それはなぜ?なんのために?これは別途考えるべきものだと思います。最後に、

「食える」という表現ついて一言。

経済の評論などで、「このままでは日本は食っていけない」といった言葉をよく見かけます。大抵の場合、「食う」というのは「お金を稼ぐ」という意味で使うのだと思いますが、やはり「食う」ではなくきちんと「お金を稼ぐ」と記述・表現すべきでしょう。

というのも現代社会において、文字通りの食うための「食糧を生産する」ことと、「お金を稼ぐ」ことの間にはかなりの乖離があるからです。よくある論調として、

農家は食えない

といったものがありますが、この場合「農業ではお金を稼げない」と、きちんと表現すべきでしょう。

食糧を生産・確保するという点からすれば、明らかに農家は、というか農家こそが食えるからです。

本質は、経済評論などという「いらない仕事で高給取り」こそが「食えない」のです。(例えそれでお金という数字は稼げたとしても!)

昨今ような緊急事態になって「いらない仕事で高給取り」が炙り出されたとき、「農家は食えない」などというあいまいで的外れな言葉を使っていた方々は、農家に頭を下げてお米をもらいに行くしかありません。

その際に、経済評論などという「いらない仕事」が、食うためのお米と交換できるかは怪しいものですが。

とはいえ、「いらない仕事で高給取り」こそが経済発展の証ですから、私はその存在はポジティブにとらえています。その点についてはこちらの記事をご覧ください。

終わり。

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