確かな希望の物語『BANANA FISH』

1.はじめに

「物語は人間の願望である」というのは本当だとわたしは思う。もしも人類がみな自分自身の人生に満足していたら、いま地球上に存在する数多の物語は存在しなかったのではないだろうか。わたしたちは物語の中で、「力がほしい」という願いをヒーローになって叶え、「運命の人を見つけたい」という願いをシンデレラストーリーで叶え、「自由に空を飛びたい」という願いを魔法のカーペットに乗って叶えてきた。今回は、鬱作品として名高い『BANANA FISH』を「希望の物語」であると主張してみたい。

2.先行作品と物質主義

 わたしは最近、『BANANA FISH』の元になったというJ.D.サリンジャーの『バナナフィッシュにうってつけの日』と、作中でアッシュが思いを馳せていた豹が登場するアーネスト・ヘミングウェイの『キリマンジャロの雪』を読んだ。正直なところ、自分がその物語の意図を適切に汲むことができているとは思えない。しかし、両者の書かれた年代(『バナナフィッシュにうってつけの日』は1948年、『キリマンジャロの雪』は1938年)は違えども、物質主義に対する反発という点で多少なりとも共通しているように感じた。物質主義とは、物質的・即物的なものごとを、他のものごとよりも優先させる態度のことである。ここでいう物質とは、専ら経済的なもの、すなわちお金のようなものを指す。
 『バナナフィッシュにうってつけの日』の中に登場するバナナフィッシュは、穴の外にいる時には普通の魚のようだったが、一旦穴の中に入ってしまうと豚のようにバナナを食べつくす。そして肥えたバナナフィッシュは穴から出ることができなくなってしまい、最後にはバナナ熱にかかって死んでしまうのだ。「豚のように」バナナを貪り、悲惨な死を迎えるバナナフィッシュは物質的なアメリカ社会に生きる大衆のメタファーのように見えはしないだろうか。また戦争から帰還し心に傷を負った主人公の青年は、即物的な世間の中で葛藤し、最後は拳銃で自殺をしてしまう。
 また『キリマンジャロの雪』の主人公であるハリーは、アフリカの地で自らの死に際し、裕福な生活の中で魂を徒に肥えさせ、自らの才能を売り払いながら生きてきたことを後悔していた。財にまみれた生活に身を置き、失ったエネルギーはいくら悔いてももう戻ることはないのであった。余談だが、作中において豹が直接的に登場することはない。

3.『BANANA FISH』と物質主義

 さて、話を『BANANA FISH』に戻そう。アッシュの生きた時代もまた物質主義の蔓延する世の中であった。ある調査によると、アメリカにおけるベビー・ブーマー世代(1946~1964年)以降、財や権力を重視する価値観が強まったという。考えてみると、アッシュと敵対したゴルツィネを始めとする人物は殆どと言っていいほど、富を築き権力を獲得することを生きがいとしていたのではないだろうか。また裏で渦巻く「バナナフィッシュ」の陰謀も、政府の高官らによって米国の権威を世界に誇示するためには何万人もの犠牲を厭わないとされていた。さらには月龍の兄たちも、中国人は即物的であるというプロトタイプ的なものはさておき、例外ではない。作中の世界は、アッシュが言うようにまさに「力こそがすべて」であった。
 その中で、遠く海を隔てた異国からやって来たよそ者の英二は、「無償の愛」をもって物質主義の世界に飛び込んできた。そしてアッシュは、生まれも育ちも異なる彼の差し伸べる手を取り、愛に目覚めるのである。陰謀渦巻く世界の中で、彼らの友情とも恋とも言い切れない愛情の関係は、ひときわ異彩を放ち読者の目を引くことになったのではないだろうか。

4.物質主義の中で生きるわたしたちと『BANANA FISH』

 そして『BANANA FISH』連載当時から今日に至るまで、日本でも物質主義的な考え方が多くの人の生き方の中心にあると思う。わたしたちは大量消費社会の中で、際限なく物質的な豊かさを日々追求している。誰もが愛を求めながらも、愛に対し疑心暗鬼になっている。物質主義にとらわれて生きることに辟易しながらも、結局のところそれを手放すことができずにいる。まるでバナナを食べすぎたために肥えてしまい、穴から出られなくなったバナナフィッシュのように。
 それではアッシュを見てみよう。彼は人々が求めてやまない富も権力も全て「偽物」だと撥ねつけて、ただ1人の愛情を選んだ。即物的な思考に囚われて、人々が追い求めざるを得ない全てのものに力強く「NO」を突きつけたのである。またさらにアッシュが強いのは、権力や富に支配されることだけでなく、己が他人を支配することに対しても否定的な姿勢をとったことである。かつての師であったブランカからゴルツィネの元に帰るよう説得されても、「偽物に囲まれて生きるよりずっといい」と弱々しくも潔く宣言するシーンは、一種のカタルシスをもたらしてくれる気がしている。とっくに捨てたはずの愛を沼底から救い出してくれるかのようなカタルシスだ。                        結果としてその決断はアッシュの命を奪うことになったが、きっと彼にとって結果はさして重要ではないのだろう。たとえ愛して滅びる道を歩むことになろうとも、そこに「愛した」という過程が確かに存在することの方が余程重要なのだ。こう考えると『BANANA FISH』は、アッシュは、わたしたちに人を愛し愛されることを強く示してくれていると言えるのではないだろうか。
 臭い言い回しではあるが、読者が生きてきた失意の時代においてアッシュと英二の魂で繋がれた愛は、より一層眩しく羨ましいものに思えたに違いない。物質主義の時代に囚われる人々に精神的な結びつきを肯定してくれる『BANANA FISH』はやはり、希望の物語なのである。‬ 


5.‪おわりに

 とは言えわたし自身「愛があればお金はいらない」などということはさらさら思ってはいない。生きるためにどうしてもお金は必要だ。それに精神主義というわけでもない。しかし、多くの人が愛に飢えているような世の中が続いているように感じる。わたしが『BANANA FISH』を繰り返し鑑賞するうえで、残酷な展開に胸を締め付けられる一方で希望を感じるようになった。今回はそれを拙いながらも文字にしてみたのだ。最後に、わたしにこれが正解だと強制する気は全くないということを言い訳として記しておく。

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