小説│駆動 [#夜行バスに乗って]

 23時半の高速バス乗り場は、漆黒の中で切れかかった街路灯が瞬きを繰り返しており、錆びれた舞台上を想起させるようだった。ガード下で一列に並ぶ人々の他に歩く人はなく、時折目の前の道路を、大型のトラックが低い振動音と共に走り去っていくのだけが、唯一の動きらしい動きだけだった。
 私はバスを待つ列の中ほどに立ちながら、ダウンジャケットに顔を埋めた。北国の春は遅い。3月も末というのに気温は1桁を叩き出していてた。一方で、本日の目的地では桜が開花したらしい。しまったなと、僅かな後悔が芽生えた。スーツケースの中は既に満杯で、ダウンジャケットをしまうスペースが存在しない。背負ったリュックサックも、8割ほど埋まっている。どうしたものか。食い込んだ肩紐に手を当てながら、まるで他人事のように考える。
 私の数十メートル左側、列の先頭には、学生らしき若い女性が4人ほど寒空に生足を曝け出していた。子供は風の子というが、子供から大人へ変わる最中の彼女たちもまた、そうらしく。有名なネズミのキャラクターが描かれたトートバックを手に、今か今かと出発の時を待っていた。あぁ、いいなぁ。取り留めもない羨望が脳をよぎる。駆け足のように過ぎた学生生活が思い起されて、体の内側すら外気に晒されたような感覚に襲われる。
 10分もしないうちに、大型のバスが交差点を左折してやってきた。漆黒の闇を照らす真っ白なロービームに目が眩んで、思わず顔を背ける。きゅっと停車したバスは、真っ白な車体にピンク色の字で社名が輝いていた。運転手さんがタラップを降りて、受付を始める。微動だにしなかった待機列はゆるゆると前に進んでいく。その足取りは時に早く、時に遅く。先頭の学生たちは軽やかに階段を駆け上がっていくのに対して、次に乗車した20代半ばの男性は、大きなスーツケースを押しながら力なく歩を進めた。
 受付は滞りなく進み、やがて私の番となる。名字を告げると、紺色のネクタイが輝かしい運転手さんは、バインダーに挟んだ乗客一覧から名前を探して、にこりと微笑んだ。
「8A席です。お荷物お預かりします」
 Sサイズのスーツケースを手渡し、トランクにしまってもらう。流されるようにバスに乗り、通路を真ん中ほどまで進む。残されたリュックサックを網棚の上に置こうとすると、ビニールに包まれたブランケットが目に入った。やっとのことで腰掛けた座席は、足元が広々としており、フットレストも備え付けられていた。いい会社を選んだと、自画自賛した。以前乗車した夜行バスは、4列シートで狭く、全身が固く押さえつけられるような息苦しさを覚えたのだ。今回はその反省を活かして3列シートを予約してみたが、見事に当たりを引いたようだ。勿論その分値段は張るが、中年というほどの年齢ではないものの、やや若さを失ったこの身にはありがたいことだ。柔らかな手触りのブランケットを膝の上にかける。後ろの乗客に一声告げ、席を倒して束の間の安息を得た。
 ごとんというエンジンの駆動音がして、バスは出発する。「本日もご利用いただきありがとうございます」と、穏やかな口調で定型文が読み上げられる。思えば、夜行バスの運転手に、粗雑な人は少ないような気がする。路線バスはぼそぼそと喋る人や、無駄に圧の強い人も多くいるような気がするが、夜行バスの運転手は概ね穏やかな口調の人が多い気がする。最も、私の夜行バスの経験など片手で数えられる程度なのだから、一概には言えないと思うけれど。
 止まるサービスエリアは2ヶ所。シートベルトはつけるように。静かにお過ごしください。そんな注意事項を並べ終わる頃には、バスは高速道路に入っていた。それでは消灯いたしますと前置きのあった5秒後に電気が落とされて、車内は暗闇に落とされる。暫くの間はエアー枕を膨らませる息の音や、興奮を隠しきれない小さな談笑、スマホの明かりなどが見え隠れとしていたが、それも10分立つ頃には大人しくなっていた。高速走行のきゅるるとした走行音が一定の音を立てる中、ぐがと響くいびきやキリキリと鳴る歯ぎしりが、不規則に重なる。
 ブランケットの下で明かりを最小限にしたスマートフォンを起動させて、地図アプリを開く。現在地を示す青い丸は、仙台青葉インターを過ぎて、南へ進んでいく最中だった。自分の意志とは勝手に進んでいく丸と、移動していく画面に、思わず目を細めた。私たちの住処だった場所は、スマートフォンの画面の上のほうへと追いやられ、やがて画面内から姿を消した。
 どこからか、ぐふっという咳払いがした。はっとして、衝動的にスマホの電源ボタンを押す。明かりが漏れてたのだろうか。居心地に罰が悪くなって、目を閉じた。音という音が脳を直接揺さぶるように響く。先程まで見ていたブルーライトが瞼の奥でチラついて、どんどん目が冴えていく。寝付けなかった。いつものことだ。あの日から私は、上手く寝れない。お酒の一杯でも飲めばよかったかと思っても、もう遅かった。過去に起こった様々な出来事が頭のいたる所に居座り、泡のように膨れ上がっていく。数多の泡のなかでとりわけ輝くのは、かつての同居人たちの姿だった。

 同居人がいた。年齢は違えど親しい友人が2人いて、大学在学中から5年以上もの間、同じ屋根の下で暮らていた。
 2年前、同居人のうち1人が突然姿を消した。朝起きたときにはあの人の部屋はもぬけの殻だった。居間の机に残された、『探さないでくれ』と書かれた手紙だけが、あの人を感じられる唯一の物だった。
 3とはなんとも都合のいい数字だったらしい。それが2になった瞬間、すべてがうまく行かなかった。賑やかでありながら慎ましく暮らしていた生活は消え、棘のある空気へと変貌した。残された私と彼とで生活を送ろうにも、歯車はどうにも噛み合わない。痺れを切らした彼は、1年前、ついに立ち上がった。
『あの人を、探しに行く』
 甘えん坊で、3人の中では一番年下の彼が、言い切った。彼がその決断に至ったそれまでを、私は知らない。同じ屋根の下で暮らしていたはずなのに、2年前にあの人が去ってからというものの、めっきりと会話をしていなかったからだ。
『君は待っていてほしい。俺と、あの人が帰るこの場所を、守ってほしい』
 その提案に、ぼんやりとしたまま頷いた。彼の下した結論に巻かれるのが、一番正しいと思った。だから約束した。私はここで待つ。その代わりに、連絡だけら欠かさないでくれと。そう約束した、はずなのに。
「貴方が、先に」
 約束は果たされなかった。彼からの連絡は、ある日を境にぱったりと止んでしまった。既読にならないチャット。送信済みだけが重なるメール。繋がらなかった電話。あまりに一方的な履歴を布団の中で眺めて、何度も朝を迎えた。そうしていくうちに布団で眠れなくなって、机に突っ伏して寝るようになった。彼らがいなくなってから購入し直した、数千円の一人用の座卓は真っ白で、最近のトレンドといわんばかりのデザインで、日焼けした畳敷きの居間には似合わなかった。それが、あの人たちがいない虚しさを余計に引き立てるようだった。
 転機は唐突に訪れた。運転手不足が叫ばれる昨今で、新路線誕生を華々しく宣伝したポスターに巡り合ったのは、1ヶ月前のことだ。淡いパステルカラーに白地のゴシック体と、新しい季節が手招きしているようなデザインは、私がすっかりを忘れてしまった喜怒哀楽の一角を呼び起こした。
 気づいたときには予約が完了していた。それからは転居の手続きと準備で、目の回る忙しさが続いた。息もつかぬ間に今日を迎え、そして今、南下するバスの席に腰掛けている。本当にこれでよかったのかと、決断できないまま。

 暗闇の中で過去を巡らし、何の生産性もない時間を過している間にも、バスは1つ目の休憩地点であるサービスエリアに停車した。「出発時刻は1時40分です」という運転手さんの案内に背を押されながら、体を伸ばすために外へと躍り出る。
 東北自動車道の安達太良サービスエリアは、かつて同居人たちと東京へドライブしたときに、休憩した場所だった。走行距離は優に10万キロを越す中古の軽自動車は、車好きで綺麗好きなあの人の手入れの賜物で、その年季とは裏腹に、真っ赤なボディがつやつやと光り輝いていた。一方、彼はそのこだわりすらどこぞふく風で、勢いよく車内でポテトチップスを開けて、叱られたのだ。
『おい! 今朝掃除したばっかだぞ!』
『え、ごめん。それよりポテチいるかい?』
 屈託のない笑顔に、あの人も私も、毒気を抜かれてしまった。思えば彼はとことん末っ子気質で、一方のあの人は兄貴気質。ともくれば、さしずめ私は真ん中の子だろうか。ひとりっ子で育った私にとって、二人の同居人はまるで兄弟だった。
 結局、あの日はサービスエリアのど真ん中で、あの人の車掃除に対するこだわりを30分ほど聞かされたんだっけ。目を輝かせ興奮した口調で話すあの人の話は長く、彼は懲りたのか、それっきり車内でポテトチップスを食べることはなかった。最も、お菓子好きの彼はことあるごとに、零しにくいお菓子というものを開拓してきて、車内での飲食は厳禁というルールも、しばらくするころには緩和された。
 それも、すべて今では思い出話。あの日長々と話し続けたのは、確か駐車場の奥の方の、車椅子用駐車スペースの向かい側あたりで。バスが今しがた停車した大型車用のスペースからは、遠目に見える程度にしかその場所を確認できず。あの日、真っ赤な軽自動車が止まっていたはずのその場所には、砂埃に汚れたワンボックスカーが鎮座していた。
「……貴方の、せいですよ」
 目を閉じれば今でも過る思い出の数々に、胸が痛くなる。すべて、すべて。あの人のせいだ。堪らずトイレに駆け込んで、個室の鍵をかけた。心臓が喉のあたりまでせりあがって、ドクドクと嫌な音を立てる。冷たくなった指先でリュックサックを握りしめ、座り込んだ。黒字のリュックサックも、あの人からのプレゼントだった。
 止まない孤独感が、大きな波となって押し寄せてくる。いつからかなんて、記憶を遡らなくてもわかる。彼が出ていったあの日だ。あの日から、私はずっと1人だ。3人で暮らした家も手放して、あの人たちとの縁を僅かに感じられるのは、薄れゆく記憶と所持品だけで。自分を守ってくれる居所などなく、一息つけるのは、こんな誰にだって開かれた数m四方の個室のみ。それでも時間は待ってやくれない。腕時計を見ればバスの出発する5分前だった。このままここに居座るわけにはいかなかった。用も足してないのに水だけ流して、個室の扉を開く。途端、暖色の明かりが網膜まで突き刺さって、逃れるように床に目を落とした。そのまま、地面を追いかけるようにしながら所定のバスに戻った。
 「おかえりなさいませ」と小声で告げた丁寧な運転手さんに、そっと会釈をして通路を進む。座席はほぼ満員で、寝たままの人、水分補給をする人、スマホを触る人など、各々が好きなようにすごしていた。先程までのトイレとは異なり、車内は薄暗い。白日の明るさもなく、ひたりと迫る闇でもなく。公共の場でありながら、他者が他者を意識しない空間に、口の中で留めていた息が丸く零れ落ちる。
 奥の方まで進む道中、ゴン、と音がして足元に目を落とす。左足の数cm手前に、何かが転がっていた。随分と重い衝突音からすると、スマホだろうか。薄暗い車内ではそれが何かは特定できず、目を細めながらしゃがみこむ。通路に横たわるそれは、L字型をしていた。黒光りするそれは触れると冷たく、指先の体温が吸われそうだった。意を決して握りしめると、毛虫が這ったように、背筋が粟立った。
「あの、落とされました」
「……あぁ、すんません」
 座ったまままどろむ男性に声をかけ、拾ったそれを手渡す。口の中で篭もった声が、マスクのせいで更にくぐもって聞こえた。へこ、と会釈したその人は黒いキャップを深く被っており、素顔がほとんど見えなかった。
 しゃがんだ姿勢のまま、体が動かなかった。視線が男性へと縫い付けられたようだ。男性は黒い上着に黒いズボンと、冬場によく見かける没個性的な服装をしていた。受け取った物体を粗雑に上着のポケットへと押し入れた。そしてすぐさま腕を組みうつむくと、すぅすぅという小さな鼻息を立て始めた。
 運転手さんの「まもなく発車いたします」というアナウンスでやっと金縛りが解けた。席に戻り、バスが発車し、電気が落とされ、緩やかに加速した車体が本線に合流した頃になって、私の心臓は急に早鐘を打った。あれは、あの冷たい物体は、何だったのか。L字の内側にノの字のフックのようなものがついており、長辺には円柱がくくりつけられたそれの形状は、画像や映像でしか見たことのない、銃、というものなのではないか? 熱い体内とは裏腹に、四肢は急速に冷えていった。喉がカラカラに渇いて、何度も唾を飲み込んだ。あれは何か? あの男性は何者か? この先何が起こる? 気になることはごまんとあるのに、時速80キロで南下する座席の上では確認する術がなく。脈打つ熱に、浮かされる他ならなかった。逃れるように目を閉じた。目尻の外側が糸のように緊張した。じわりと血が滲むような感覚がして、アメーバのように広がる緑色の何かが見えた気がした。
 気づいたときには、どこかの街に立っていた。ビルとビルの隙間を無数の車と人が行き交う、忙しない街だった。向かいからやってきた女性がみるみるうちに近づき、やがて私の身体をすり抜けて、後方へと去っていった。夢だ。これは夢だと、直感した。持っていたはずのスーツケースとリュックサックは見当たらなかった。周囲を見回す前に、私は一人の男性に、そして彼の持つ黒い物体に目を奪われた。何故、と疑問を零す時間はなかった。銃声が響いた瞬間、私はその場に崩れ落ちた。
 熱い。燃えるように、頭が熱い。頭蓋骨にめり込んだ弾丸は、勢いを失うことなく進み、やがて脳味噌の中程まで到達した。穴の空いた大脳に、冷たい空気を感じた気がした。真っ赤なフィルターがかかった視界の中で駆け寄ってきたのは、同居人--あぁ、もう、同居人じゃないのか--かつての同居人たちだった。
『大丈夫か!? 今救急車呼ぶからな! 死ぬんじゃねえぞ!』
『大丈夫だ、絶対に治る! 君は生きるんだ!』
 --そんなこと言って、いなくなったのは貴方たちなのに。
 貴方たちなしに、どう生きろと言うんですか。やっと会えた二人を詰め寄って、胸ぐらを掴んででも問いただしたかった。それでも私に残された時間は、あまりに少なかった。恨み言も、別れの挨拶もも、ずっと言いたかった感謝も、何も言えず。やっとのことで浮かべた笑みが、貴方たちに伝わっているかすら確認できず。視界はそのままブラックアウトした。死してなお意識は少しだけ残っていたようで、最期の瞬間に思ったのは、今ではもう伝える術のない言葉だった。
「ごめんなさい」

 はっとしたときには、バスはブロロロと音を立てながらゆっくりと走っていた。明かりがついて、「まもなく、バスタ新宿に到着いたします」というアナウンスが響く。スマホを開いて地図を確認すると、現在地を示す青い丸は新宿都庁の横を通り過ぎたところだった。遮光カーテンを指先でつつくと、黄みがかった色の光が隙間から漏れる。靴の中で足先をぐーぱーと開閉を繰り返した。ふくらはぎはパンパンにむくんでいて、やはり夜行バスは得意ではないと、痛感した。思えばわざわざ夜行バスでなくても、仙台から新幹線でいけばよかったのではないか。あまりに今更な選択肢が浮かんで、思わず苦笑した。

 バスが停車し、乗客は各々のペースで降りていく。学生たちは朝早くにもかかわらず軽やかに立ち去っていき、疲れた顔の男性はキリとした顔を繕ってから車外へ降り立った。私もリュックサックを取って通路を進む。あの黒い服を着た男性の席を横目で確認すると、彼は既に車内にはいなかった。ゴミ一つ落ちておらず、背もたれとフットレストがきちんと戻された座席は、立つ鳥跡を濁さずという言葉を連想させるようだった。
 6時のバスタ新宿は、パッキリとした明かりの下で少しやつれた表情の人々で賑わっており、グラスに入った炭酸水を想起させるようだった。私は荷物を受け取ると、追い出されるように外に出た。朝早くというのに、国道20号線はバスとトラックとタクシーと、ほんの少しの乗用車で行き交っていた。ビル群の隙間から眩い光が飛び込んでくる。
 春はあけぼの。平安の都が山なら、現代の都はビル群だ。その隙間と屋上のあたりが白く明るんで、天頂に広がる薄雲を紫に染め上げていく。それは朝だった。毎日繰り返す有り触れたものでありながら、唯一無二となった、今日という日の朝だった。
 私は過ぎ行く人を見ながら、ぐいと背伸びした。相変わらず腰は辛いし、足は重いし、首筋も寝違えて痛みを訴えている。それでも、久々によく眠れた。心がまっさらに洗われたようだった。朝がこんなに晴れやかなのはいつぶりだろうか。
 きっと私は、あの夢で死んだ。未練にまみれた私は、あのバスの中で死に、ここで生まれ変わった。ならばやることは、一つしかないだろう。やる以外の選択肢は、もうないのだ。
 私はイヤホンをつけ直した。まずは、そうだ。朝食を取ろう。コーヒーでも飲みながら、今日のことと、今後のことを考えよう。今ならなんだってできるきがするのだ。無謀なのはわかっている。それでも、貴方に会いたいから。この世界のどこかにいる探し人を、見つける算段を立てよう。人口約70億のこの地球上のどこかで、貴方たちとまた、巡り会いたいから。
 そうして、私は最初の目的地である喫茶店に向けて、一歩を踏み出した。


【後書き】
 はじめましての方もお久しぶりの方もこんにちは。永和けいです。
 今回はこちらの企画に参加させていただきました。とても楽しい企画をありがとうございました。
https://note.com/lucky_omame/n/nf804335ae1de

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