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【演奏会評】悔しいが称賛するしかないデュトワの演奏

デュトワの問題

 シャルル・デュトワが指揮した新日本フィルハーモニー交響楽団の公演が評判である。しかし、私が会場へ赴く足取りはとても重かった。それには二つ理由がある。

 ひつとは、デュトワによる一連の性的暴行・セクハラ行為の問題がである。
 2017年の告発報道に端を発し、芸術監督を務めていたロイヤル・フィルをはじめ多くのオーケストラが彼との絶縁を発表した。彼の行為は決して許されざるものであり、当然のことだと思う。むしろ「偉い人は何をやっても許される」が通らない世の中になったことを歓迎すべきだろう。
 だから、私は彼が何事もなかったかのように指揮台に立ち、聴衆から喝さいを受ける姿に極めて強い違和感を覚えるのだ。

私の過去

 もうひとつは、私の個人的な苦い思い出である。

 私が大学生の頃、付き合っていた女性の誕生日にチャイコフスキーの交響曲第5番のCDをプレゼントした。たしか誕生日がチャイコフスキーと同じだったからだと思う。その録音はチェリビダッケ指揮ミュンヘン・フィルのものであった。今にして思えば、決して気の利いた贈り物ではない。
 後日、彼女の母親がヴァイオリンの教師でクラシック音楽に詳しいらしく、「遅い」とその録音を一蹴したことを聞かされた。代わりに推薦したのがデュトワの録音だった。

 私はチェリビダッケの深い含蓄に富んだ演奏を「遅い」と判断し、デュトワなどという表面的な演奏(と当時は捉えていた)を持ち上げた母親とそれを受け入れてしまう彼女にあきれた。いや、正確には自分のプライドをひどく傷つけられて、腹が立ったのだ。
 「ヴァイオリンをやっているから音楽がわかる?何を偉そうに!」

 それからほどなくして私は彼女に振られた。その理由の詳細は明かさないが、この一件も遠因ではある。
 そして、振られたまさに当日、私はデュトワ指揮ロイヤル・フィルによるドビュッシーやラヴェルを聴いていたのだ。その時の演奏がどのようなものだったかは覚えていないが、私は無意識にデュトワを避けるようになっていた。


 それからおよそ10年の月日が流れて、奇しくもデュトワによるフレンチ・プログラムとチャイ5を聴くことになり、あらためてこのことを思い出したのだ。

動物的で上品な「ラ・ヴァルス」

 さて、実際に2公演を聴いてみて、私はその素晴らしさに圧倒された。だからといって性暴力の件を許すことはできないが、少なくとも私個人の青臭い経験など軽く吹き飛んでしまうものではあった。

 まず「ラ・ヴァルス」は、生々しく動物的でありながらこの上なく上品であるという彼の音楽の特徴が最大限に発揮されたもの。彼が体を揺らせば、弦楽器がピツィカートで妖しげな脈動を刻み、彼が手のひらを返せば、管楽器が柔和なフレグランスを立ちのぼらせる。
 これほどまでに、身体表現が即音楽として生成される感覚を受ける指揮は非常に稀有である。私が生で聴いた中では、他にサロネンくらいであろうか。


強く熱いチャイ5

 そして、なんと言ってもチャイ5。上記の特徴に加えて、力強さや熱い魂も感じられた。まさか彼の演奏にこのような形容をする日が来るとは…

 例えば冒頭。クラリネットの息の長いフレーズは、ゆったりとしたテンポで大きな振幅を見せていた。それを支える弦楽器に対して細かく指示を与えていたのも印象的だった。やがて主部へ移行してもテンポは急に速めない重量感のあるアプローチである。まさか!と思った。このあたりは慣れていないのか、オーケストラに不器用さが感じられたが、それでもやりたいことは十分に伝わってきた。

 また、第1楽章のコーダ。彼はおもむろに拳を突き上げると、何度も繰り返される主題に合の手を入れるトランペットがまさに進軍ラッパのように響いたのである。その見事な鮮やかさに思わず背筋がゾクッとした。

 私はもともとチェリビダッケやバーンスタインのような演奏が好みではあり、当然デュトワはそれらとはまったく異なる。執拗な苦悩や激しい闘争、皮肉の気配も見え隠れする歓喜などとは無縁の、音響的な美に特化した演奏である。第2楽章はもっと暗くあるべきだし、フィナーレはもっと激しくあるべきだろう。
 しかし、それでもなお圧倒された。ぐうの音も出ないのである。かつてカルロス・クライバーのブラームス4番を聴いた人々もこのような気持ちになったのだろうか、と想像した。

 あらためてデュトワの人間性にも音楽性にもまったく共感はしないが、これからも彼が演奏するとあれば聴きに行くのはやぶさかでない。



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