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大学生が最初に読むべきウェーバーは『プロ倫』ではない

(ゆる言語学ラジオ「一生読まない本を手放そう!積み本精霊流し【雑談回】#146」でプロ倫がついに読まれなかった本認定されたことを受けた記事です)


多くの古典がそうであるように『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』もまた、必読リストに延々と居座り続けながら読まれない傾向があります。以下では皆様が抱えるその呪いを解きたいと思います。
プロ倫について多くの方は「プロテスタントの禁欲の倫理が、資本主義を生み出した」というあらすじだけ暗記して済ませていることでしょう。もしかしたらもう一歩進んで「資本の蓄積が天国行きの証しとされることによって」ぐらいは調べたかもしれません。しかし、いずれにしても意味不明じゃないですか?「予定説では死後救われるかはもう決まってて不動、けど天職を頑張るのは神様の意図に適ってるだろうから、お金を稼げば救われる」、プロ倫で描かれるプロテスタントはそう考えているようですが、どうすればそんな支離滅裂な論理にたどり着いたのか不思議でなりません
じつはプロ倫は、その不思議を解き明かす本です。教義から論理的に考えれば上の民衆が正しいわけはないが、そう民衆が考えても仕方ない力学はあったはずだ、これがウェーバーがプロ倫で示そうとしたことの一端です。
なぜそんなことをしなければならなかったかと言えば、社会学という学問の有効性を示すための、言ってしまえばパフォーマンスの部分が何割かは含まれただろうと私は思います。当時の大学と社会学の関係は、ウェーバーとデュルケームがそれぞれ無理矢理に学部を作らせたりしたばかりの不安定な時期にありました。そもそも社会の実在性や学問対象としての価値に疑問が投げかけられる状況にあって、「お堅いプロテスタントが享楽的な資本主義を生み出した」というのは相当にキャッチーであり、それを唯一説明できる社会学という学問の価値を高めたことは想像に難くありません。ちなみに「意図せざる結果」という社会学上の概念が確立するのはプロ倫のおよそ半世紀後です。
更にちなみにですが、同じく社会学古典として挙げられるデュルケーム『自殺論』も、けっきょくは自殺という最も個人的な出来事に対して、社会の景気などが影響するという今ではごく当たり前の結論に達するまでそうとう長々と語ったりデータを示したりしています。統計で因果関係を示すのは今でこそ社会学にとっても社会にとっても当たり前の技術ですが、当時は未発達というか統計学というものがほぼ無い状況であったため、学者や知識人からさえも「不景気でも自殺しない人の方が多い!」「好景気でも自殺する人はいる!」といった「反論」が寄せられたそうです。
だから当時の状況を考えるにプロ倫は「プロテスタントの倫理と資本主義に関係なんかあるわけ無いじゃんwww」というテンションで読むべき本であって、「プロテスタントと資本主義の関係を理解するぞ!」という現代の入り方は最初から終わってる気がします(もちろん本の正しい読み方なんてのはナンセンスですが)。
現在プロ倫を読んで特有に得られるものは、ほぼ無いと言っていいでしょう。少なくとも「プロテスタントが資本主義を作った」という例のあらすじに現在における社会学的栄養は無いと言い切っていいでしょう。「ウェーバーが示した資本主義とプロテスタンティズムの関係を前提として~」などと論文で書いている人は誰もいません。
それなのになぜ勧められるかと言えば、端的に言えばその後のあらゆる社会学的方法論の元祖であるからですね。これには初期のシンプルさゆえモデルとして適する以外に、社会学の独特な立ち位置も影響しているように思います。私の見るところ社会学はドライな科学としてのアイデンティティを持っている一方で、ウェットな哲学(古代ギリシャからの伝統的な意味で)的側面も隠し持っていて、古典に対する態度はその現れとみることができると思います。すなわち科学の良いところは現代の科学者がニュートンのプリンキピアをいちいち読まなくても研究ができるところにあるわけですが、社会学はそこまで潔くなれないのですね。そうであるべきかべきでないかはともかく(べきである、と個人的には思います)、現実としてそうなっている。
上でプロ倫には特有の栄養が無いという主張をしましたが、それは無意味だからではなく、むしろ少しでも役立つ部分は後世にパクられ倒しているからです。それはビートルズに似ているでしょう。こんにちビートルズが「ただの古くさいバンド」に聞こえるのはむしろ自然で、そこから勉強してビートルズから栄養を摂取するかどうかは完全に趣味の問題でしょう。そう考えたとき、プロ倫をいま社会学者を目指さない多くの人々が読むべきか、というとかなり疑わしいと私は思います。

では、なにを読むべきか。私はウェーバー『職業としての学問』を推したい。これは晩年のウェーバーが行った講演を元にした70ページ程度の本で、スペック表通りおやつ感覚で読める。
ウェーバーは言う。「専門バカたれ!」と(言ってない)。ウェーバーが実際に言ったのはこうだ。「学問に生きるものは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここに後々まで残るような仕事を達成したという、およそ生涯に二度とは味わえぬであろうような深い喜びを感じることができる」。では専門に閉じこもるために必要なのは何か?遮眼革(めかくし)である。

それゆえ、いわばみずから遮眼革を着けることのできない人や、また自己の全心を打ち込んで、たとえばある写本のある箇所の正しい解釈を得ることに夢中になるといったようなことのできない人は、まず学問には縁遠い人々である。〔…〕これのない人に学問は向いていない、そういう人はなにかほかのことをやったほうがいい。なぜなら、いやしくも人間としての自覚のあるものにとって、情熱なしになしうるすべては、無価値だからである。

目隠しをすることによってのみ、見えてくる豊穣な世界がある。非常にゼイリブみのある優れた見解だと思います(ゼイリブ:「〈真実が見えるサングラス〉を通して世界を見ると、実は人間に化けたエイリアンによって支配されていた!」というカルトムービー。色眼鏡を通して現実を見る、というのがポイント)。
ほかにも、「霊感って、散歩とかシャワーとか、焦ってないときに降りてくるよね」とか「私は諸君の教師にはなれるが、指導者にはなれない。自分の生き方は自分で決めろ」等々面白い話が最後まで詰まっています。
『職業としての学問』、オススメです。

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