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ボカロ曲『人の話を聞いてないんだな』深掘り

今日は青谷さんの『人の話を聞いてないんだな』を縁に、少し考えてみようと思います。
静かなピアノから入り、一定のリズムで区切られ歌われていく曲です。
そんな曲調のため、ともすれば聞き流してしまいそうになりますが、フレーズは強烈で胸に刺さるものがあるなと感じます。

この記事では特に心揺さぶられた一節を抜粋して、感想など書いています。
読みながら一緒に考えてもらえると嬉しいです。
関心を持たれた方は、是非聞いてみてください。


私が取り上げるのはこの一節です。

君は本当に人の話を聞いてないんだな
共感は錯覚 君の言葉を僕の辞書で引く
仲間は幻覚 ぼっちの中にもぼっちが生まれ
生きている間は孤独でも ゆく先には死(なかま)が待つ

人の話を聞いてないんだな/青谷

現実が打ち砕かれ、真実を抉られたような衝撃を受けました。
皆さんは、この歌詞をどう感じるでしょうか。

私たちは人と話すとき、自分の話が通じている、相手の話が分かっていると思って会話をしていると思います。
そうでないと会話が成り立たないので、当然と言えば当然のことですが、「共感は錯覚 君の言葉を僕の辞書で引く」という歌詞は、実は分かっているつもりになっているだけなんだと、気づかされます。

共感。
簡単に言えば、その気持ち分かるよということですが、本当に分かっているのか、と問われると言葉に窮してしまいます。
人は皆、自分だけの経験や考えを持っています。
そのため同じ言葉を使っていても、人それぞれ言葉に対するイメージや意味内容は異なっているのが、事実ではないでしょうか。

例えば「大学生」といっても、委員会やサークル活動に精を出し友人にも囲まれ、きらきら明るい大学生をイメージする人もあれば
友人は数人でサークル活動は程ほどに行い、空きコマに図書館で真面目に勉強する、大人しい大学生をイメージする人もあるかと思います。

単語一つとっても、人によってイメージは全く異なることが、日々の会話でも知らされます。
相手の発した言葉を、自分のイメージで解釈しているのが私たちです。

「君の言葉を僕の辞書で引く」
本当に言い得て妙だと感じます。
そんな人間同士が話をして共感があったとして、悲しいですが錯覚でしかないと気づかされます。

「仲間は幻覚 ぼっちの中にもぼっちが生まれ」
独りだねと寂しさを共有したところで、幻覚。
仲間に囲まれていても、反対にぼっちであっても、どんな人も心の奥底は独りなのではないでしょうか。
よくよく考えてみると、ぼっちでしかいられないのが私たちなのだと知らされます。

ここまででも十分、今生きている現実が揺らぐような感じがしますが、最後の一行は特に迫ってくると感じます。

「生きている間は孤独でも ゆく先には死(なかま)が待つ」
死を「なかま」と歌っています。
なかなか衝撃の表現ではないでしょうか。

私たちは、日々当たり前のように生きています。
朝起きて身支度をととのえ、学校で授業を受け友人と話し、昼食を済ませ午後を乗り切って、夕食はどうしようかと買い物して帰路につき、食事を終えてお風呂に入り、本を読んだりyoutubeを見たりして時を過ごし、明日の予定は何だったかなと確認して眠りにつく。
社会人なら仕事に忙殺され、1週間が飛ぶように過ぎている、という方もあるかもしれません。

色々な生活があると思いますが、明日がないと思って過ごしている人はいないのではないでしょうか。
しかし、人は必ず死なねばならないし、いつその時が訪れるかなんて、決まっていません。

「生きている間は孤独でも ゆく先には死(なかま)が待つ」
人の数だけ人生がある、人それぞれの生き方がある、だから孤独。
でも、すべての人は例外なく、ゆく先は同じく死。
すべての人は死なねばならないという事実に、ハッとさせられます。

当たり前だと思っていた現実が崩れ、隠れ忘れられていた逃れようもない真実が、重く強烈に迫ってくるのを感じます。
自分はどう生きれば良いのか、人生を考えずにはいられなくなるなと思います。

この歌を知り記事を読み、皆さんはどう思われるでしょうか。
コメントで感想など聞かせてもらえると嬉しいです。
この記事が考えるきっかけとなり、皆さんと一緒により良いnoteライフを送れると幸いです。

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