その先の、枡野浩一に。


 うなぎの寝床のような、狭い狭い部室でした。もともと生徒会室だったのを本棚で無理やり2つに区切り「演劇部」「写真部」「漫画研究部」「クイズ研究部」「社会問題研究部」「文芸部」に与えられた部屋で、総称「5文科部室」と呼ばれていました。「クイ研」と「社問研」はもう活動していなかったので、実質的に活動していたのは3つの部活だけ。ちなみに私はいちばん勢力の強い「演劇部」に所属していました。
 ほぼ360日学校に通うほど部活動をしていたものですから、部室にもずいぶん入浸っていました。そこで撮った写真もたくさんあります。例えば文化祭で、演劇部がグランプリを獲ったときの写真。黒板いっぱいにそれぞれお祝いの言葉を書いて、その前に部員全員が並んでいる記念写真です。その、逃げ場もないほど「青春時代!」という写真の隅っこに、あるものが写っています。心霊写真ではありません。それは黒板のこんな文字でした。
  文芸部先輩、水戸浩一さんが本を出版さ
  れました!『ガムテープで風邪が治る』
  です。みなさん買いましょう!
これが、私と、枡野さんの出逢い。つまり高校の先輩(5期生)と後輩(16期生)だったのです。

 「自分は散文家である」―――あちこちのインタビューやエッセイで、自身についてこのように語っている。
「私の短歌にしても、この詩集にしても、『散文なのに図らずも生じてしまうポエジー』みたいなものに惹かれているんだと思いますね」(「早稲田短歌会」枡野浩一40000字インタビュー)
ともあるように、枡野浩一氏の短歌は、つねに散文であり、また、そのことに強く自覚的でもある。
 「マスノ短歌教」という架空の宗教によって、「マスノ短歌」に対するスタンスはより明確に提示された。「一度読んだだけで意味がすぐわかり、くり返し読んでも面白い」「短歌以外の形式で表現した方が面白くなる内容のものは、短歌にしては駄目です」「なるべく助詞を省かず、短歌に見えないように、普通の文章みたいに仕上げるのがポイント」など『かんたん短歌の作り方(マスノ短歌教を信じますの?)』の目次には、そんな「信条」とも言うべきルールが並んでいる。連載誌が若い女性に向けたコミックだったこともあり、そのルールは理路整然としていて、あまり「書く」と言うことに対して積極的ではない人間にも届くよう、優しく提示されている。
 明確なルールに基づいた「教祖」(それは「先生」よりも強い印象を与える)という立場。「仮」だとしてもそれを名乗ってしまうことは、作家としての幅をことごとく狭めてしまう危険を孕んでいる。ルールを作った教祖自ら、ルールを破ることはできない。
「自分の短歌って、ルーツが趣味でやっていた『替え歌』で……。そこから始まっているんで、文語とか使いようがなかったんですよね。先にとにかく短歌がたくさん生まれてしまって」(「早稲田短歌会」)
この一文を読むと、ルールより先に、「マスノ短歌」が生まれていることがわかる。いつのまにか出来てしまった短歌。歌集や歌誌を読み、既成の短歌と比べて違いに気がつく。自分の短歌独自の方法論を見つける。本の出版を機会に、その独自の方法論に適った歌を選別する。そして「マスノ短歌教」の連載。『てのりくじら』『ドレミふぁんくしょんドロップ』で確固とした「マスノ短歌」をルールとして。その流れについて、とくに問題はないように思える。書きたいという情熱があり、作品が生まれる。新しい文体の短歌が出てくることは歌壇が続いていくうえの重要な要素でもある。
 ここで私は、村木道彦氏のことを思い出す。「するだろう ぼくをすてたるものがたりマシュマロ口にほおばりながら」に代表される口語を取りいれた作品、そしてその独特の文体。「自己模倣でしかない」「縮小再生産に落ちいってしまった」衝撃的なデビュー「緋色の椅子」の連作以後、そんな評が並ぶようになる。そして『天唇』をまとめると、そのまま短歌界から遠ざかってしまう。そんな経歴を持つ村木道彦氏を。
 村木氏も「マスノ短歌」ほど明確ではないが、ある種の自己規制をしいていたように見える。「村木道彦の短歌」であるために。ひらがなの使い方や、口語のおり混ぜ方、感覚の繊細さ。「緋色の椅子」で、故意ではないにしろ確立してしまったイメージに沿うために。イメージが強ければ強いほど、規制は厳しいものになる。
 『ますの。』を出版してから、新作の短歌集は作られていない(文庫化は除く)。一時期、ホームページで「短歌からは離れる」と宣言し、掲示板を閉じてしまったこともあった。作品の読者として、また「マスノ短歌」の今後を期待していたものとして、それはとても残念なことであったが、短歌を詠みつづけていない以上、そういった枡野の行動はとても誠実であると感じた。新しく短歌を詠まないものが、いつまでも歌壇に対して提言をし続けてゆくべきではないと、私は思う。リングを降りたボクサーが、いつまでもリングサイドで他者の試合を解説しつづける光景は、やはり気持ちのいいものではない。「あのパンチは受けるべきではなかったですね」他人の試合に対して、口で言うだけなら誰にでもできる。実際にリングに立って、同じパンチを避けてこそ、批評は成立する。枡野浩一は歌壇に「マスノ短歌教」という新しい波を起こし、そして本人は他の世界―――ライターやエッセイストとして―――活動するようになる。村木道彦氏のように、自分の歌にルールを引いてしまったものの、ある意味での不幸な行く末として。
 しかし、先人である村木氏が歌壇へ帰ってきたように、枡野もまた短歌を作り始める。
「いま、気持ちが変わったのは、枡野浩一の短歌を初めて知ったっていう人が、このごろまた増えてきたからかもしれないですね。文庫の『ハッピーロンリーウォーリーソング』(角川文庫)が出たせいだと思うんですけど。仕事として熱心な以来が来るんですよ」(「早稲田短歌会」)
作り始めたきっかけをこのように語っている。さらに並行してプロデューサーとして歌集の出版に携わるようになる。加藤千恵氏や佐藤真由美氏の歌集だけではなく、インターネットの掲示板を使って、不特定の読者に対して短歌の募集もしている。それらは確かに枡野にしか出来ない仕事であり、「作者=読者」という枠をはずし、純粋な読者として短歌に触れる人々を増やしたという功績は、とても大きい。ほぼすべてが自費出版という歌集に「商業出版」という道を広げたという事実も重要である。
 しかし、純粋に作家としての枡野浩一の作品は、「断筆宣言」以前と、何か変化しているのだろうか。
「短歌は私にとって特別なものだったんです。『さあ、つくろう』と思ってつくったこと、ないんですよ。注文に応じて作ったこともなくて、自然に生まれてきちゃったものばかりで。できちゃったから発表したい、という感じで今まで来たんです。それをちゃんと世に出さないと一歩も進めないという気持ちがある時期まであって、とにかく出したかったの、世に」(「早稲田短歌会」)
自然に生まれてできた短歌。それはとても幸福な短歌だと思う。そしてなにより、書き手の伝えたいメッセージや熱がこもっている。たくさんの読者が枡野浩一についてゆくようになったのも、それが読者に伝わった結果だといえる。10代後半から20代前半の若者の心を、決して31音という制限が枷になることなく、軽やかに詠みこんでいる。同じ内容をエッセイにするよりも、小説にするよりも、かえって「短歌」という定型のリズムが与えられたことで、言葉は純度の高い結晶のように、研ぎ澄まされた。
 それを今、再び詠み始めた枡野は「注文を受けて」作品を作るようになる。もう自然発生的に短歌が生まれてはこない現状で。「マスノ短歌教」というルールを自らに強いてしまった後で。そして自らがプロデュースした歌人たちによって、目新しさがだいぶ薄れてしまった(その分世の中に浸透したともいえるが)「マスノ短歌」を作っていけば、あのころの村木道彦氏のような「自己模倣」「縮小再生産」に陥ってしまう可能性を含んで。
散文でもあり、短歌でもある存在は、もう「マスノ短歌」で完成されてしまったのだろうか。短歌の可能性はまだまだ底が知れないと、私は信じている。「自分は散文家である」そう明言する枡野氏に、また新たに短歌を作り始めるのなら、自らの方法論すら上回る新しい「マスノ短歌」を生み出してほしいと願う。マスノ短歌教のルールなんて取っ払って、新しいルールをまた作ればいい。ピカソがその作風を変えながら巨匠になっていたように、一度築いたものをすべて打ち壊す勢いで。また短歌を作ってゆく=歌壇とも付き合ってゆくことになるからには、常に枡野浩一にしか与えられない新しい風を吹かせてほしいと思う。ライターとして広くマスコミとも通じていることも、きっと強みになる。マンガ家や劇作家、小説家と他ジャンルとの交流もきっと新しい「マスノ短歌」の刺激になってゆくはずである。

 部活を終えて、体育館の舞台から部室に戻ると、いつも西日が差し込んでいました。その眩しすぎる光を避けながら、当時たったひとりしかいなかった文芸部の先輩(もちろん部長)が、よく原稿を書いていました。『Starless』という大変暗い名前の部誌。「脚本書いてるんだったら、試しに小説か詩でも書いてみない? 」そんな誘いで芝居の合間に文章を書くようになり、何度か部誌に載せてもらうことがありました。その『Starless』の原型を作ったのが、枡野さんだったそうです。狭い部室や、強い西日や、へんな制服という変わらないバックグランドを抱えている限り、「マスノさん頑張れ!」という声援を、私は送りたくなるのです。

初出:「TILL枡野浩一特集号」

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?